足利義昭を織田信長が追放した理由とは?

織田信長

 

織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を擁立(ようりつ)して上洛。

天下統一に王手をかけます。

義昭は兄である義輝(よしてる)が暗殺されると、幽閉されていた奈良を脱出して

朝倉義景(あさくらよしかげ)に助けを求めます。

しかし再三の救助依頼を義景に拒否されたため、信長を頼ったといういきさつがあります。

義昭にとっても信長は恩人で、信長にとっても義昭は利用できる人物です。

それがなぜ「追放」という結果になってしまったのでしょうか?

2人に何があったのか調べてみました。

 

足利義昭はなぜ追放されたのか

利害関係が一致していたと思われる足利義昭織田信長

なぜ義昭は追放されてしまったのか見ていきましょう。

室町殿御父(むろまちどのおんちち)

「足利義昭は織田信長によって追放された」と聞くと2人の仲は良くなかったのだろう、

と想像してしまいますが、そんなことはなかったようです。

むしろ義昭は信長のおかげで京都に帰ることが出来たと、信長に感謝していました。

兄であり前将軍でもある義輝を暗殺した三好家も、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家が義昭に付いたのですから、手も足も出ません。

三好家の軍勢は京都から撤退し、義昭は無事に15代将軍に就任することが出来ました。

さらに信長は、二条城を整備し義昭の身の安全を図ります。

義昭は非常に感謝し、信長に「室町殿御父」という称号を与えます。

つまりは「自分の父親と同じだ」として信長を敬ったのです。

手紙では略して「御父」と書いていることからも、信長に対して相当の信頼を寄せていたのでしょう。

十七条の意見書

「室町殿御父」と信長のことを本当の父親のように敬(うやま)っていた義昭。

2人の仲はそう長くは続きませんでした。

信長が義昭に対して、十七条の意見書を送ると2人の仲は完全に決裂します。

十七条の意見書とは信長が義昭に送った、いわばダメ出しです。

どんな内容か、ほんの一部を抜き出してみます。

・きちんと宮中に参内するように、と言ったのに参内を怠りがちです。朝廷をないがしろにしてはいけません。

・功があった者にはきちんと褒美やってください。ささいなことで下の者を処罰するのは聞こえがよくありません。

・賀茂神社の土地を没収したと聞きました。このようなことは良いことではありません。

・信長に対して友好的な者に対しての不当な扱いはどういうことでしょうか?迷惑しております。

・罪のない者の刀を取り上げたとはどういうことですか?人々は将軍は欲深いと考えています。

・「悪御所」と呼ぶ人までいます。このような陰口をたたかれる理由をよく考えてください。

なかなか辛辣な内容です。

しかし、聞き方によっては義昭のダメな所を指摘して、きちんとしてくださいよ、

とたしなめているようにも受け取れます。

しかし義昭は「将軍に向かってなんたること!」と激怒。

信長との対決姿勢を強めていきます。

信長は義昭に甘かった

信長のイメージから自分の利益のために邪魔だった義昭を追放したのでは、と思いがちですが

実は義昭に対しては最後まで甘い態度を崩していません。

先ほどの「十七条の意見書」も決して、意地悪で批判しているわけではないのです。

実際に義昭の評判はあまり良くなかったという資料が残っています。

将軍と言う地位に有頂天になってしまって、行動が少々目に余る将軍様だったようです。

信長も「将軍はわかってくださるだろうか」と周囲にもらしていたそうです。

義昭が「信長包囲網」を完成させ信長に敵対しても、信長は天皇に頼んで和睦の道を選んでいます。

和睦したにもかかわらず、義昭は数ヵ月後に再び挙兵します。

その結果、義昭は京都から追放されてしまうのですが、本来であれば殺されてもおかしくない状況です。

追放で済んだことでも信長の義昭に対する甘さが分かります。

 

きょうのまとめ

元々考え方の違った2人だったから、仲違いは当然と言う人もいますが、

信長に義昭を追放する意思は、元々はなかったという人もいます。

みなさんはどちらだと思いますか?

この記事を読んで想像してくれたらうれしいです。

 

足利義昭の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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