足利義昭とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

室町幕府15代将軍である足利義昭(あしかがよしあき)のことを

どれくらい知っていますか?

戦国時代の真っ只中で将軍職に就いた義昭は、

他の戦国大名の影に隠れてあまり知られていない人物かもしれません。

足利義昭とはどんな人物だったのでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

 

足利義昭はどんな人?

プロフィール
足利義昭

出典:Wikipedia

  • 出身地:京(現在の京都市)
  • 生年月日:1537年
  • 死亡年月日:1597年10月9日(享年 61歳)
  • 室町幕府15代将軍にして、室町幕府最後の将軍

 

足利義昭 年表

年表

西暦(年齢)

1537年(1歳)京都に生まれる。(幼名、千歳丸(ちとせまる))

1542年(6歳)出家。仏門に入り覚慶(かくけい)と名乗る。

1565年(29歳)永禄(えいろく)の変。三好三人衆によって兄・義輝(義輝)と母・弟が暗殺される。

1566年(30歳)還俗(げんぞく)し、義秋(よしあき)と名乗る。

1568年(32歳)征夷大将軍の任命を受け、15代将軍に就任。義昭と改める。

1570年(34歳)信長からの殿中御掟(でんちゅうおんおきて)を承認。この頃から信長との対立が始まる。

1573年(37歳)反信長の旗を揚げ、挙兵するも数日で敗走。京都から追放される。

1576年(40歳)毛利氏を頼り、鞆(とも)の浦に移る。

1588年(52歳)将軍職を辞し、仏門に入る。朝廷からは准三后(じゅさんぐう)の地位を与えられる。

1597年(61歳)大阪で死去。

 

15代将軍になるも追放

年表を見てもらえれば分かると思いますが、義昭は6歳で出家しています。

将軍家は家督争いを起こさないために、跡継ぎ以外は仏門に入るのが慣例だったからです。

本来であれば、歴史の表舞台には出ず、静かな生活を送るはずの人でした。

しかし将軍であった兄・義輝(よしてる)、さらには母・弟を三好三人衆(みよしさんにんしゅう)に暗殺されてしまいます。

三好三人衆: 三好長慶(ながよし)の死後に三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち)の3人を指す

そこで足利宗家を継いだのが義昭です。

最初は交流のあった朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼りますが、義景に救援を拒否されると美濃(みの)を平定した織田信長を頼ります。

信長に擁立(ようりつ)される形で義昭は15代将軍に就任します。

しかし信長との関係は徐々に悪化し、わずか5年で京都から追放されてしまします。

こうして室町幕府は終わりを迎えるのです。

 

足利義昭の逸話やエピソード

足利義昭の人となりが分かるようなエピソードを集めてみました。

実はちょっとワガママだった?

信長のおかげで無事に15代将軍になった義昭ですが、

結局は信長に京都から追放されてしまいます。

・信長の義昭に対する扱いが酷かった、

・信長の傀儡(かいらい)でいることが嫌だった

など色々な説がありますが、義昭の我侭な行動が原因だったとも言われています。

・名馬がいると聞くとその馬を差し出せとねだる

・欲しい刀を取り上げる

・訴えをそのまま放置する

・神社の敷地を勝手に没収する

・集めたお金を幕府のために使わない

などなど、なかなかのやりたい放題です。

さすがに頭にきた信長は「十七条の意見書」を義昭に送りつけます。

十七条の意見書とは、十七項目にも渡る義昭へのいわばダメ出しです。

これに腹を立てた義昭は、信長に対して挙兵するもすぐに鎮圧され追放されてしまいます。

仏門に入っていたとはいえ、将軍の子。

おぼっちゃま気質が抜けなかったのでしょうか。

関連記事 >>>> 「足利義昭を織田信長が追放した理由とは」

 

最後まで諦めない不屈の将軍

ちょっと我侭でダメダメ将軍かと思いきや、京都から追放されても

打倒信長、京都帰還を諦めない気骨(きこつ)も見せます。

信長に追放されると、諸国を転々としながら最終的には毛利氏を頼って鞆(とも)の浦に落ち着きます。

事実上は義昭が京都から追放された時点で、室町幕府は滅んだとされていますが、

義昭はその後も将軍の地位を朝廷には返さず、鞆の浦で細々と将軍職を続けたことから「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれます。

この頃に、反信長勢力の大名に送ったと見られる書状が多く残っています。

決して打倒信長を諦めなかったんですね。

関連記事 >>>> 「足利義昭は鞆の浦に幕府を作っていた?」

最後は大往生

打倒信長に燃えた義昭ですが、信長が本能寺の変で急死すると羽柴秀吉が頭角を現します。

それまで頼っていた毛利氏が秀吉に降ると、将軍職を朝廷に返し、再び仏門に入ります。

出家し、積極的に政治には係わらないと示したことで京都帰還を許されます。

秀吉から1万石の領地を与えられ、豊臣政権ではかなり優遇された生活をおくります。

前将軍という肩書きからか、その扱いは大大名と同等だったといいます。

御伽衆(おとぎしゅう)にも名を連ね、秀吉の話相手になっていたそうですから、晩年は穏やかに過ごしたのではないでしょうか。

義昭は61歳で病死します。

この時代としては長寿ですし、歴代の足利将軍の中でも最も長生きしました。

関連記事 >>>> 「室町幕府最後の将軍・足利義昭の最後とは」

 

きょうのまとめ

室町幕府最後の将軍・足利義昭についてまとめてみましたが、いかがでしたか?

足利義昭とは?

① 15代将軍になるも京都から追放された

② 将軍になると好き勝手

③ 打倒信長を最後まで諦めなかった

④ 最後は大往生だった

あまり評価されない人物ですが、義昭が将軍を継いだ時には、幕府の力は地に落ちていました。

そう考えると「最大の努力をした人」とも言えると思います。

その他の記事についても足利義昭にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 










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