室町幕府最後の将軍・足利義昭の子孫とは?

 

室町幕府は、楠正成(くすのきまさしげ)を破り、京都に開いた武家政権です。

初代将軍・尊氏から237年、15代に渡り足利氏が将軍職を継承してきました。

江戸幕府は265年続いたので、これに継ぐ長さの政権です。

安定した時代とは言えなかったかもしれませんが、畳(たたみ)を敷いた部屋、

今の私たちが、和室という認識を持つ生活様式が生まれたのもこの時代なんです。

そして、公家や朝廷に代わり完全に武家へ力が移ったのもこの時代です。

いろいろなことが変わっていった激動の時代だったんですね。

そんな室町幕府は15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が、織田信長(おだのぶなが)によって京都から追放される形で終わりを迎えます。

義昭は殺されることはありませんでしたが、その子供たちや子孫はどうなったのでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

 

足利義昭の子供たち

義昭には3人の息子がいたと言われています。

その息子たちを紹介したいと思います。

足利義尋(あしかがぎじん)

義尋は将軍・足利義昭の子として生まれました。

側室の子でしたが、義昭に正室がいなかったため嫡子(ちゃくし)とされました。

将軍家の跡取りとして育てられましたが、父・義昭が織田信長に敗れ京都から追放されると織田信長に人質として差し出されます。

時期将軍として生まれながら、人質とは運命のいたずらを感じます。

信長はいずれ、義尋を将軍として擁立(ようりつ)しようと考えていたのではないか?

とも言われていますが、本能寺の変で無念の死を遂げてしまいましたので、将軍・義尋は幻となってしまいました。

人質に出された後、わずか1歳で出家させられると、興福寺(こうふくじ)の大僧正(だいそうじょう)にまで登りつめます。

後に還俗(げんぞく)し、妻を迎え息子2人が生まれますが、2人とも仏門に入り

・実相院義尊(じっそういんぎそん)は実相院の大僧正

・円満院常尊(えんまんいんじょうそん)は円満院の大僧正

になったと言われています。

義尊・常尊の2人とも子供を儲けなかったので、義昭の孫の代で足利氏の嫡流は断絶したことになります。

一色義喬(いっしきよしたか)

足利家の菩提寺(ぼだいじ)である鑁阿寺(ばんなじ)に残る文書で、足利義昭の子であると伝わっています。

義昭の近臣(きんしん)だった、一色藤長(いっしきふじなが)に近江(おうみ)国、現在の滋賀県で養育されたと言われています。

しかし、義喬が義昭の子であるという証拠は現在のところ見つかっていません

そのためか、

・義尋が養子に出されているのに、義喬は匿われていることから、「実は義喬が嫡子ではないか?」説

・義尋が仏門に入りながらも子供を儲けたので寺を追い出されたという話から、「義昭ではなく義尋の子ではないか?」説

などと言ったいくつかの説がありますが、

どれも確証がないため想像の域を出ません。

後に義喬の孫は坂本姓に改姓し、会津藩士になっています。

永山義在(ながやまよしあり)

永山義在は、足利義昭が和泉(いずみ)国に蟄居(ちっきょ)していた時に誕生した子とされています。

父の元を離れ、薩摩藩に身を置いていた義在は、薩摩藩士に婿入りし永山姓を名乗るようになりました。

薩摩藩の資料では、足利義昭の子とされていますが、他の同系の家系図では登場しません。

このことから、出自が疑わしいとされています。

兄の義喬と同じく義昭の子であるという確実な証拠が見つかっていない人物です。

西南戦争で西郷側として政府軍と戦った永山弥一郎(ながやまやいちろう)は、

義在の末裔であると言われますが、義在と弥一郎の関係性を示す資料が一切ないことから、

本当に末裔であるかどうかは、不明です。

 

きょうのまとめ

子孫に関する資料が少なく、確実に義昭の子供であると言えるのは、「足利義尋(あしかがぎじん)」だけです。

栄華を極めた将軍家としては、なんとも寂しい気がしますね。

他にも足利義昭について記事を書いていますので、興味がある方はそちらもお読みください。

 

足利義昭の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「足利義昭とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

 










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