足利義昭は鞆の浦に幕府を作っていた?

織田信長

 

鞆(とも)の浦という地名を知っていますか?

この場所は、足利氏にとっても特別な場所です。

室町幕府最後の将軍・足利義昭は、織田信長に追放されてから鞆の浦で過ごしていた時期があります。

そして密かに幕府を作っていた、というのです。

どういうことなのか気になりますよね。

では見ていきましょう。

 

鞆の浦に作った幕府とは

足利義昭が鞆の浦に作った、といわれる幕府。

どんなものだったのか紹介したいと思います。

鞆の浦の歴史

広島県福山市の沼隈半島(ぬまくまはんとう)南端に位置する、港とその周辺の湾岸です。

鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、潮の流れがぶつかる場所です。

満潮時には鞆の浦(とものうら)で潮がぶつかり、干潮になると鞆の浦から東西に潮が引いていくことから、

「瀬戸内海の潮と潮が出会う場所」と呼ばれています。

また潮と潮がぶつかり流れが変わることから、潮の流れが変わるのを待つことを「潮待ち」といい、鞆の浦は「潮待ちの港」と言われてきました。

この非常にめずらしい地形のため、古くから天然の良港として栄えました。

海上交通の要所であり、物流の拠点でもあった鞆の浦は軍事的にも重要な場所でした。

759年に編纂(へんさん)された万葉集にも鞆の浦を詠んだ歌が、八首あることからそれ以前には既に港として栄えていたと思われます。

遺跡の状況などから、弥生時代にはある程度の集落があったのではないかとも言われています。

古代より栄えた重要な場所だったんですね。

<鞆の浦>

足利氏と鞆の浦

足利氏にとっても鞆の浦は重要な場所です。

室町幕府は、多々良浜(たたらはま)の戦いに勝利した足利尊氏(あしかがたかうじ)が

鞆の浦で光厳天皇(こうごんてんのう)から、新田義貞(にったよしさだ)討伐の院宣(いんせん)を受け取ったことから始まりました。

院宣とは: 天皇からの公式な命令書のようなもの

院宣を貰ったことで、足利尊氏は天皇の命令を受けた軍、つまり天皇の意思の元動いている、

という大義名分を手に入れたことになり、室町幕府を開くことが出来たわけです。

足利将軍家にとっては、始まりとも言える特別な場所だったんですね。

鞆幕府(ともばくふ)

織田信長に京都を追放されてからの義昭は、現在の大阪・和歌山などを転々としたあと鞆の浦に移ります。

当時の鞆の浦には、毛利氏の重要拠点のひとつとして「鞆要害(ともようがい)」が築かれていました。

義昭はこの鞆要害を整備し館を構え、「打倒信長」の機会を伺っていました。

鞆の浦には、義昭に付き従った室町幕府の名家の重臣たちも多く集まっていました。

追放はされましたが、将軍の職を辞したわけではなかった義昭は、将軍の特権を使い、年貢や礼銭(れいせん)を獲得し、毛利輝元を副将軍に置き、信長との対立姿勢を強めていきます。

この亡命中の政府は「鞆幕府」とも呼ばれます。

政府と言われるほどの機能があったかどうかは分かりませんが、信長に対抗する大名からの援助もあり財政は安定していたのではないか、とも言われています。

 

きょうのまとめ

足利義昭が鞆の浦に開いた、とされる「鞆幕府」を紹介しましたがいかがでしたか?

結果的に室町幕府は滅び「足利は鞆に興り鞆に滅んだ」と言われます。

しかし最後まで打倒信長を諦めなかった、義昭の執念が伺えます。

 

足利義昭の【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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