幕末の時代、ペリー来航など、海外列強の脅威が目前に迫った状況において、老中首座としてその対策にあたった
阿部正弘。
彼の行った「安政の改革」は、それまで200年守られてきた幕府の慣習を破った斬新な政策でした。
ほかの指導者とは一線を画す聞き上手の姿勢から、正弘は幕府の新体制を作り上げたのです。
阿部正弘ってそんなにすごい人なの…?
だってペリー来航って、幕府はアメリカにビビッて言いなりだったんじゃなかったっけ?
などと、思っている人もいるかもしれません。
実は詳しく見てみるとこの事件は、一般的なイメージとはちょっと違う部分もあるんです。
阿部正弘とはどんな人物だったのか、彼の人となりを知れば、きっとその見方も変わってくるはずですよ!
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阿部正弘はどんな人?
- 出身地:江戸・西の丸(現・皇居前広場)藩邸
- 生年月日:1819年12月3日
- 死亡年月日:1857年8月6日(享年39歳)
- 幕末期、ペリー来航に際し、交渉と対外政策を担った幕府・老中首座。外様大名の幕政への関与や、「安政の改革」など、これまでにない大胆な政策で幕府の新体制を築いた。
阿部正弘 年表
西暦(年齢)
1819年(1歳)江戸・西の丸の藩邸にて、第5代備後福山藩主・阿部正精の六男として生まれる。
1836年(18歳)兄・正寧から家督を相続し、第七代備後福山藩主となる。
1838年(20歳)幕府にて奏者番の役職を与えられる(将軍への献上品の管理、将軍が家臣に授けものをする際の伝達を担う仕事)。
1840年(21歳)幕府にて寺社奉行の役職を与えられる(寺社や僧職、神職の取り締まりを行う仕事)。
1843年(25歳)幕府にて老中の役職を与えられる(幕政を司る最高機関)。
1845年(27歳)水野忠邦の失脚により、老中首座の役職を与えられる(老中の最高権力者)。島津斉彬や徳川斉昭などを幕政に関与させ、幕府の体制を大きく変える。
1853年(35歳)アメリカのマシュー・ペリー、ロシアのプチャーチンなどと外交交渉を行う。これに伴って訓練機関の創設、禁止されていた大型船の造船許可、身分を問わない人材登用などで海防を強化していく(安政の改革)。
1854年(36歳)ペリーの再来航に伴い、日米和親条約を締結。
1855年(37歳)開国派の老中を免職したことが井伊直弼の反感を買う。対立を避けるため、老中首座の座を堀田正睦に譲る。
1857年(39歳)江戸にて病死する。
六男にして家督を相続。若くして幕府の役職に
1819年、阿部正弘は江戸・西の丸の藩邸にて、第5代備後福山藩主・阿部正精の六男として生を受けます。
幼少期
幼少より、阿部家の教育係・柴山敬蔵、門田朴斎から
・馬術
・槍術
などを習い、修練に励んでいたという話。
その甲斐もあり、以後家督を相続し、藩主や幕府の要人として活躍していくわけですが…
「正弘は六男なのに当主になったの?」と気になった人もいるはずですよね。
お察しのとおり、六男である正弘が当主となったことにも複雑な事情がありました。
幕政に積極的でなかった兄・正寧
阿部家には当時、正弘のほかに正寧という嫡男がいました。
5代藩主正精は1826年、53歳にして死没し、嫡男・正寧に家督は相続されます。
阿部家は幕府でも幹部にあたる譜代の家柄のため、正寧も幕府内で早々に役職を与えられていました。
しかし彼はいかんせん体が弱く、幕政に積極的になれなかったんですよね…。
そのため早々に隠居し、藩主の座を正弘に譲るのです。
これが1836年、正弘が18歳のころの話でした。
その後、正弘は
・寺社奉行
と、幕府においても役職を歴任していきます。
幕府内での仕事が多忙を極めたため、藩主ではあるものの、実際に備後福山藩に赴いたのは、1837年の一度きりだったとか。
そしてこの幕府での仕事のうち、12代将軍・徳川家慶の目に留まったのが、寺社の取り締まりを行う寺社奉行としての働きでした。
大奥と寺社の乱交問題を穏便に解決
1840年、20歳で寺社奉行となった正弘の前に現れたのは、感応寺という寺院と、江戸城の女の園・大奥の問題でした。
感応寺は11第将軍・徳川家斉によって建立された寺院。
その権威を利用した僧侶と、大奥の女官との乱交が横行していたのです。
家斉から家督を相続した家慶は、この問題を取り沙汰そうとします。
しかし…そもそも将軍によって建立されたお寺なのだから、あまり大っぴらにしては将軍の権威に関わりますよね。
これを懸念した正弘は、処分の対象を最小限にすることで、事件を穏便に片づけようとします。
正弘が行った対処は以下のとおり。
・中心となっていた僧侶・日啓、日尚の処分
・家斉の側室として輿入れした日啓の娘・美代の処分
そもそも感応寺は家斉の側室・美代を、日啓が輿入れさせたお礼として建てられた寺院。
多くの女官が乱交に関わっていながら、大奥で処分されたのはこの美代だけだったのです。
つまり正弘は大奥を敵に回さないことで、将軍の悪い噂を流されないよう配慮したわけですね。
大奥は実際、幕府に対しても権力をもっていましたし、女性の恨みはいつの時代も怖いものですから…。
なにはともあれ、この一件で正弘は将軍・家慶から引き立てられるようになるのです。
老中として幕府内の不正を正す!
こうして将軍のお気に入りとなった正弘は25歳のころ、幕政の最高機関である老中に任じられます(なんと史上最年少!)。
するとそこから、「待ってました!」と言わんばかりの手腕を発揮し、幕府で不正を行っていた官職を辞任させていくのです。
きっかけとなったのは、1844年に江戸城本丸が焼失した事件でした。
この焼失事件に際し、老中首座・土井利位は修繕費を工面しようとしましたが、うまくいかず。
これを理由に免職となり、代わって土井の前に老中首座を務めていた水野忠邦に白羽の矢が立つこととなります。
しかし水野は以前の在任時、幕府の財政再興を目指した「天保の改革」に失敗していることもあり、正弘はこの人選に反対しました。
それどころか水野は
・家臣の鳥井耀蔵が、砲術家・高島秋帆に嘘の罪を着せ、投獄する
などの不正に関わっており、これを調べ上げた正弘に、家臣もろとも免職されてしまうのです。
水野が免職されたということは、老中首座の座は空席。
そこにこの事件の功労者として、正弘が任じられることとなるのです!
ちなみに老中首座は老中の最高責任者であり、今でいう内閣総理大臣にあたります。
正弘はこのときまだ27歳。
そう考えると恐ろしいですね…。
老中首座に就任。外様大名との連携に乗り出す
老中首座となった正弘は、そこから幕政の主導権を握っていくこととなります。
阿部正弘の政策
彼の政策で特に斬新だったのは、外様大名など、これまで幕政には関わってこなかった人材の意見を積極的に取り入れたことでした。
江戸幕府の政治というのは、
・譜代:「関ケ原の戦い」より以前から徳川家に仕えている大名
を中心に行われており、関ケ原の戦い以降に関わった外様大名は、幕政に関わることを長らく許されていませんでした。
正弘はその慣習を取っ払い、譜代も外様も関係なく、幅広く意見を求めることで幕政を動かそうとしたのです。
薩摩藩主・島津斉彬との連携
特に影響力が強かったのは、薩摩藩主・島津斉彬との連携です。
そもそも前藩主・島津斉興を隠居させ、斉彬を藩主に就任させたのは正弘でした。
斉彬の才能を買っていた正弘は彼の意見を取り入れ、外国船来航の情報などを全国の大名に広く公布します。
このころ、中国がアヘン戦争に負け、イギリスの植民地にされてしまったことなどを受け、
「日本もそろそろ危ないのでは…」
という風潮が幕府内では広がっていましたが、こういった情報は基本外部には漏らさず、幕閣だけで処理するというのがこれまでの習わしだったのです。
斉彬としては、これを全国の諸大名に広めることによって、海外列強に対する危機感を高めてもらう算段だったようですね。
攘夷派・徳川斉昭の登用
水戸藩主・徳川斉昭を海防掛参与に任命したことも、正弘の政策としては注目されています。
徳川斉昭は幕府においては親藩にあたる家柄のため、幕政に関わっていて不思議なことはありません。
しかし水戸藩にて過激な仏教抑圧を行ったことで、謹慎処分を食らっていた人なんですよね。
そんな感じでちょっと行き過ぎている部分もあるのですが、斉昭は熱心な攘夷派で、海防に対する意識は人一倍高かったのです。
(※攘夷派…海外のものを追い払おうという考えの人たち)
正弘は海外諸国の軍事力をよくわかっており、攘夷は無謀だという考えの持ち主でした。
ただ海防の担い手として、攘夷思想をもつ斉昭の勢いは大いに利用できると考えたのでしょうね。
決して主張が強いわけではなく、聞き上手の指導者といわれる正弘。
彼は太っていたため正座が苦手だったのですが、人の話を聞くときはどんなに長くても正座を崩さなかったのだとか。
そうやって人の意見に誠意をもって向き合う姿勢があったからこそ、いろんな考えの大名ともうまい距離感で付き合っていけたのでしょう。
ペリー来航!安政の改革へ
1853年、神奈川の浦賀にアメリカ東インド艦隊を率いたマシュー・ペリーが来航します。
日米和親条約の締結
このとき、ペリーの背後に強大な軍事力を感じた正弘は渋々、アメリカ・フィルモア大統領からの親書を受け取りました。
そして1年後の1854年、日米和親条約が締結され、200年続いた鎖国の歴史に終止符が打たれることとなります。
ここで念頭に置いておきたいのは、条約を認めた正弘はアメリカに屈したのではなく、日本の権威を保ったうえで交渉を行っているということです。
条約締結を巡る彼の行動を見ていれば、当時としてこれがいかに優れた決断だったかがわかります。
条約締結は戦争を避けるための譲歩
まず正弘がアメリカとの交渉をしたのは、ペリーが日本にやってきたこの2回だけではありません。
最初は1846年、ペリーの以前に艦隊司令官をしていたジェームズ・ビドルが神奈川県浦賀沖に来航しており、貿易を求められた正弘はこれを断っています。
また1853年にも、ペリーだけでなく、ロシア艦隊を率いたプチャーチンが長崎で貿易関係を迫っており、これも断っているのです。
つまりほんとに戦争が懸念されるギリギリまで、正弘は諸外国との条約締結を渋っていたということ。
さらに日米和親条約の内容を見ても、戦争にならないための最低限の譲歩であることがわかります。
・アメリカ人の行動範囲は下田港の周辺7里(27.4キロ)、函館港の周辺5里(19.6キロ)に限定する
・アメリカ人は武家や町家に立ち入ってはいけない
などなど。
条約の締結に関しても部下の松平乗全、松平忠優のふたりを出向かせ、最高責任者は関与していないとすることで幕府の権威を保とうとしています。
日米和親条約の締結は、あたかも日本がアメリカに屈したかのように見えますが、このとおり。
正弘はアメリカの好きにされてはいけないと、かなり抵抗しているのです。
結果として戦争にもならず、幕府の権威も保てている。
この時点ではどれもが絶妙な判断だったといえるのではないでしょうか。
かつてない大規模な対外政策・安政の改革
ペリーの来航を受けた正弘は、アメリカとの交渉を穏便に収めただけでなく、同時に大胆な対外政策を実施していきます。
・長崎海軍伝習所の創設(のちの海軍)
・洋学所の創設(のちの東京大学)
・禁止されていた大型船の建造を許可する
などなど、海防に関する訓練機関や兵器などを1853年を境に一気に整えていくのです。
さらに、海防に充てる人材にしても、身分を問わない人選をしており、これも前代未聞のことでした。
・川路聖謨
・大久保忠寛
・永井尚志
・水野忠徳
・江川英龍
・岩瀬忠震
・ジョン万次郎
などなど、旗本以下の身分で、普通なら幕政に携わらないような人物ばかり。
たとえば、ジョン万次郎にいたっては漁師の家系で武士ですらありません。
ただ彼は難破したところをアメリカ船に助けられ、アメリカで生活したことのある唯一の日本人として知られていました。
つまり正弘は身分を度外視し、万次郎のもつ海外の見識から、幕臣に採用したのです。
ほかの人物にしても、能力を重要視している点では同じことがいえるでしょう。
これが阿部正弘の代名詞である「安政の改革」。
正弘は海外列強に対抗するべく、幕府内に今までなかった新体制を築き上げたのです。
正弘の政策が幕府の破滅を招いた?
前述のように、正弘は外様大名など、これまで幕政に関わってこなかった大名を重用しました。
これはのちに、幕府に対抗する雄藩の台頭の原因となり、結果的に幕府の破滅を招くことになったといわれています。
(※雄藩:藩のなかでも力の強い藩のこと。幕府と戊辰戦争を起こした薩摩藩・長州藩など)
正弘が行った政策はたしかに、諸藩との関係においては幕府が不利な立場に立たされるものだったのかもしれません。
しかしその結果、日本は明治維新という転機を迎え、新たな文明開化へと進んでいったわけですよね。
さらに正弘が活躍の場を与えた下級武士たちは、以降明治政府を担っていく人材へと育ちます。
こう考えると正弘の政策は総じて、日本全体を近代化へと導くものだったといえるのではないでしょうか。
きょうのまとめ
幕末、日本に迫った海外列強の脅威に対し、阿部正弘は交渉を担い、幕府のかつてない大改革をもって、対抗策を見出そうとしました。
リーダーというと自己主張が強く、自分の考えを基に部下を引っ張っていくイメージがあります。
しかし正弘の人となりを見てみるとそれとは真逆で、彼はとにかく部下の声に耳を傾け、部下の意見から政策を練っていくリーダーでした。
一言にリーダーといってもさまざまなやり方があって、自分に合ったやり方を選ぶことがいかに大事なことかを、正弘はその生涯から教えてくれていますね。
最後に今回のまとめをしておきましょう。
① 阿部正弘は寺社奉行に就任し、大奥と寺院の乱交問題を解決した。その際、穏便にことを収めたことを評価され、将軍・徳川家慶から重宝されるようになった。
② 老中になってすぐ、老中首座・水野忠邦の不正を暴く活躍を見せる。その功績から老中首座に就任した。
③ 老中首座としては、島津斉彬、徳川斉昭などを重用し、譜代・親藩だけで構成されていた幕府の体制を大きく変えた。
④ ペリー来航後は、海防に関する訓練機関の創設、身分を問わない大胆な人材登用で新体制を築く(安政の改革)。
正弘が人の意見をよく聞き入れたのは、ひょっとするとその若さにも理由があったのかもしれません。
経験が浅い分、それぞれの分野で能力をもっている人を頼って乗り越えようとしたのかも?
そうはいっても、人の話をよく聞くというのは、ある意味自分が主張するより難しい面があります。
正弘のように謙虚に、聞き上手を心得たいものですね。
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