島津斉彬とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

島津斉彬は、幕末の四賢侯のひとりに数えられた名君です。

その四賢侯のひとりとされた福井藩主・松平春嶽をして

「彼にかなう大名はいない」

と言わしめた存在です。

西洋文明に通じ、独自カメラを研究したり、
薩摩藩に近代的な工場を作り上げ、一気に近代化を行います。

まるで、明治維新後の日本の姿を薩摩の地で実験しているかのようにです。

それほどの人物でしたが、
藩主になったのは42歳です。

島津斉彬は父・斉興との仲が悪く、長く藩を継ぐことができませんでした。

そんな、島津斉彬について説明をしていきます。

 

島津斉彬はどんな人?

  • 出身地: 江戸(薩摩藩邸)
  • 生年月日: 1809年4月28日
  • 死亡年月日: 1858年8月24日(享年 満49歳)
  • 幕末の四賢侯のひとりに数えられた薩摩の開明派の名君

 

島津斉彬 年表

年表

西暦(年齢)

1809年(1歳)江戸の薩摩藩屋敷にて生まれる。(幼名:邦丸)

1825年(16歳)初名であった忠方より斉彬と改名、「斉」は将軍「家斉」より一字を賜った。

1826年(17歳)蘭癖大名として名高い曽祖父、島津重豪にシーボルトに引き合わされる。

1849年(40歳)薩摩藩主の父・斉興との対立が激化し、後継問題として「お油羅騒動」が起きる。

1851年(42歳)幕府の介入により斉興は隠居、島津斉彬が薩摩藩主となり、薩摩藩の近代化政策「集成館事業」を開始する。

1853年(44歳)ペリー来航、島津斉彬は幕府に大船建造の禁の解除を訴える。

1856年(47歳)養女とした天璋院篤姫を江戸幕府13代将軍、徳川家定の正室に輿入れさせる。

1858年(48歳)将軍後継者問題で井伊直弼を中心とする幕府旧守派と対立する。

1858年(48歳)将軍後継問題で朝廷に圧力をかけるため京に兵を上げる直前8月24日に急死する。

 

明治維新の道筋をつけた名君・島津斉彬

島津斉彬が藩主となり実験を握ったのは42歳、

そして将軍後継問題で、井伊直弼と争っている最中に急死したのは48歳です。

実際に政治の表舞台で活躍していた時期はかなり短いものとなります。

しかしこの間に、西郷隆盛、大久保利通などの人材を発掘し、藩を一気に近代化させます。

「集成館事業」とよばれる近代化事業は、

近代工場群を薩摩藩に造り上げる物でした。

当時、薩摩を訪れた西洋人たちはこの事業に驚嘆していました。

西洋人以外で、西洋文明をここまで吸収し再現してきた国家などどこにもなかったからです。

その点で、島津斉彬の行ったのは明治維新における近代化の魁ともいえるものでした。

そして、政策的には幕府との協力体制を作り、雄藩連合による挙国一致体制をつくり、ソフトランディング的改革を目指していたようです。

幕府内で老中・安部正弘が実験を握っている間は幕府との関係も良好でした。

しかし、井伊直弼が幕政の実験を握ると、

将軍後継問題で対立します。

優秀な人材であると呼び声のあった一橋慶喜を擁立しようとする島津斉彬と、将軍は血筋こそ優先すべきとする井伊直弼が対立します。

島津斉彬は、将軍後継問題で朝廷に圧力をかけ、

幕府に揺さぶりをかけるため京へ兵を送り込む計画をします。

その計画が実施される直前に島津斉彬は、

魚に当たって死にました。

原因はコレラ、腸チフスなどの説があり、俗説として暗殺説も噂となります。

それほどまでに、島津斉彬の死のタイミングは、

政敵に都合のいいものだったのです。

 

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島津斉彬にまつわるエピソードや伝説

島津斉彬は蘭癖大名と呼ばれた、

曽祖父の重豪の影響を受け、非常に西洋文面に興味をもっていました。

しかし、アヘン戦争での清の敗北を知り、

その興味は日本が西洋化、近代化しなければ、亡国につながると言う思いになります。

ただ、彼が薩摩藩の実権を握ることは中々出来ませんでした。

父・島津斉興とは沖縄貿易問題を中心として様々ところで、対立していました。

そして、その対立が「お油羅騒動」と呼ばれる世継ぎ、問題と言う形となり幕府に知られる形となりました。

父・斉興は幕府に隠居させられ、島津斉彬は島津藩主となり、

藩の近代化と、幕政への介入を開始するのです。

日本人で最初にカメラ撮影成功

「集成館事業」とよばれる近代化事業は広範な範囲に及びました。

島津斉彬は、西洋文明を取り入れ、

西洋に負けない武器を製造できるようになることが、日本の安全保障に必須であると考えたのです。

そして、西洋文明好きの島津斉彬は、カメラが大好きでした。

彼はカメラの研究をはじめ、

日本人の手によるカメラの撮影を始めて成功させます。

斉彬自身が写ったその写真は今でも重要文化財として現存しています。

ルイヴィトンを始めて持った日本人

島津斉彬はパリ万博で評判となり、

ルイヴィトンが世界的なブランドになる直前にルイヴィトンのかばんを入手していました。

これは、沖縄(琉球)を経由したフランスとの貿易を拡大する計画の中で、

フランスから斉彬の手にもたらされたものといわれています。

ルイヴィトンのブランドというより、

頑丈な西洋カバンとして、気に入っていたのかもしれません。

父・斉興との対立

前薩摩藩主・島津斉興とは、徹底的に対立します。

性格的に合わず島津斉彬は父親に対し

「ケツの穴が小さい男」と書いた書面を残しています。

対立の大きな原因は、父・斉興が朝廷から従来の薩摩藩主以上の高い官位をもらうことを画策していたことがあります。

そのためには、藩内のいざこざは困るのですが、

島津斉彬は沖縄貿易を拡大しようと画策します。

薩摩藩にとって、実は沖縄貿易は、リスクの高いものです。

それを拡大することで、幕府に目をつけられてしまえば、高い官位を受けることができなくなります。

また、家臣団は、蘭癖趣味による藩財政の危機がまたやってくる可能性を危惧しました。

なにせ、斉彬を可愛がっていた重豪は蘭癖趣味で薩摩藩に500万両の債務を作った張本人です。

父・斉興はそれをなんとか200万両の余剰金が出るまでに立て直したのです。

官位問題、沖縄問題、財政問題が大きな対立点です。

後継問題といわれるお油羅騒動は、騒動の名前となったお油羅、また子であり斉彬の弟である久光は関与していなかったことが定説になっています。

父と子の激しい呪詛合戦の史料は今も残っていますが、

お油羅と久光が関与した史料は残っていません。

 

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きょうのまとめ

島津斉彬とはどんな人物であったか、お分かりになったでしょうか。

今回は、最後までお読み頂きありがとうございました。

島津斉彬とは?

① 幕末四賢侯のひとりであり、その中でも傑出していると言われた名君

② まるで、明治維新の近代化を先取りしたかのような近代改革を薩摩藩で実施

③ とにかく、父・斉興とは仲が悪くそのため42歳まで藩主になれなかった

その他の記事についても島津斉彬にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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