阿部正弘はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

“大御所時代”

というずいぶん綱紀の緩んだ時代が終わり、

その反動とした改革に失敗。

大坂では大塩の乱がおこり、

外圧はいよいよと強まり、

安政の大地震が世をさらいました。

そんな沈滞と不安の時代に幕政のかじ取り役を任された阿部正弘

強引な腕力ではなく、

全体のバランスに細心の気配りをする調整型リーダー。

毀誉褒貶はなはだしいこの人のまとめです。

 

阿部正弘はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:江戸(現在の東京)
  • 生年月日:1819年12月3日
  • 死亡年月日:1857年8月6日(享年37才)
  • 江戸時代後期の政治家。”安政の改革”をリード

 

阿部正弘の年表

西暦(年齢)

1819年(0才)阿部正弘生まれる

1837年(17才)正弘、備後福山藩へお国入り。正弘が国元へ帰ったのは生涯ただこの一度きり。

1838年(18才)正弘、奏者番に任じられる

1840年(20才)正弘、寺社奉行に任じられる

1843年(23才)正弘、老中に任じられる

1845年(25才)水野忠邦失脚、替わって正弘が老中首座に就く

1853年(33才)ペリー率いるアメリカ艦隊が日本初襲来

1854年(34才)ペリー艦隊再来。日米和親条約締結。

1857年(37才)正弘亡くなる

 

幕政の貴公子阿部正弘と”感応寺事件”

備後福山藩阿部家は正弘以前から3代連続4回老中就任をほこる幕政の超名門

正弘は五男でしたが、やがて後を継ぎ、

幕政においても早くから頭角を現してゆきます。

わけても寺社奉行時代の”感応寺事件”の裁定は正弘の後の政治姿勢を色濃く暗示し、

出世の大きな足がかりとなりました。

“感応寺事件”

とは”大御所時代”に、

大奥の女中たちが感応寺に足を運び、

そこの美僧たちと「いろいろやっていた」という一大スキャンダルです。

正弘は
寺方の主犯格を罰し、寺を破却するも、

大奥をほぼスルー、

という”絶妙”の裁定で、

幕府の権威を傷つけず、将軍様の覚えもめでたくなりました。

 

老中首座となる

やがて、時代は天保の改革をむかえますが、

それを主導した水野忠邦らは失敗し、失脚。

正弘はわずか満25歳で水野に替わって老中首座になり、

幕政を中心から指導してゆくようになります。

当時の大きな課題は”外圧”

すでに清ではイギリスによってアヘン戦争に敗れ、

その侵略にさいなまれておりました。

日本でも外国船が立て続けにやって来て、

長年の祖法”鎖国”の脅威となっておりました。

正弘は海岸防御御用掛(海防掛)を設置して外交・軍事問題を当らせ、

筒井政憲、川路聖謨(かわじとしあきら)、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎など
身分を問わない能力重視の大胆な人材抜擢を行いました。

そしていよいよ”あの時”がやってきます。

 

黒船襲来、そして……

正弘ら幕府はすでにその1年も前から情報をつかんでいたとされます。

そして、
1853年アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が日本に来襲。

この時は結局国書の受け渡しだけ終えると、艦隊は帰ってゆきます。

正弘はこの国難に対し、親藩や外様大名・朝廷などにも広く意見を求めます。

翌年にはペリー艦隊が再来日するのですが、

「日米和親条約」を締結。

アメリカに開国するものの、のちの「日米修好通商条約」ほどの不平等条項は盛り込まれることなく、どうにかやり過ごします。

正弘はこういった未曽有の国難にあって、

国論が開国派と攘夷派の真っ二つに割れる中、

その時々に応じてバランスを取り、

どうにか国をまとめ上げました。

その絶妙な手腕はのちに
「正弘がもっと長生きしていれば歴史はああならなかっただろう」

と惜しまれるほどでありながら、

一方で、
「正弘の慣例を破ったやり方が結局幕府崩壊の糸口を与えてしまった」

と非難されてもおります。

正弘はそうまでして幕政にすべてをささげたためか、

正弘の国元備後福山では藩政をまるでかえりみられず、大変な困窮に遭い

(このためも大いにあってかこれだけの大藩にかかわらず幕末では薩長軍に対してまともな戦いぶりもできませんでした。早々に薩長の軍門に下り、その露払いをやらされております)、

正弘自身も
わずか満37才でこの世を去ってしまいます。

そして、
時代はいよいよ幕末へとなだれこみます。

 

関連記事 >>>> 「黒船来航と日米ギリギリの外交対決!阿部正弘と「日米和親条約」」

関連記事 >>>> 「国難のバランサー阿部正弘にささやかれる様々な死因」

 

きょうのまとめ

この人は”幕府”を終わらせる原因を作ったかもしれませんが、

有意の人材抜擢や新組織設立などでその後の”日本”をいろいろと整備してくれたのは事実です。

それにしても、
正弘がこういった”調整型”の人間になったのはどういった原因があるのでしょう?

① 阿部正弘はその出世の糸口となった”感応寺裁定”で知られるように、現実的で無理押ししないスタンスが目立つ

② 阿部正弘は安政の改革の大胆な人材抜擢や時代を見据えた新組織設立、黒船来航の察知など、やるべきことは結構ちゃんとやっている

③ 阿部正弘はやはりそこが役職や時代の重さか、国元の備後福山藩政をなおざりにしたり、親藩・外様大名・朝廷らの発言力を大きくしてしまったり、いろんな”副作用”に苦しんだ

 

関連記事 >>>> 「阿部正弘のルーツ、そして、阿部家の家紋鷹羽紋を背負った偉人たち」

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