細川家は代々室町幕府の官僚であり、
細川京兆家の11代目当主である
細川勝元。
応仁の乱では東軍の大将となった人です。
そんなエリートの一族だった細川勝元の子孫はどんな人がいるのでしょうか。
また、今もその血は続いているのでしょうか。
少し調べてみましょう。
細川勝元の子供たち
細川勝元には、嫡男、政元と娘が1人いました。
2人はどのような生涯を送ったのでしょうか。
細川政元
細川政元は1466年に勝元の嫡男として生を受けました。
政元は父の勝元の跡を継ぎ、わずか8歳で12代目の細川京兆家当主となりました。
父の勝元は応仁の乱の最中に病死してしまったのです。
その応仁の乱が収束した1474年の翌年、政元は13歳で元服しています。
政元は女性に興味を持たない人でした。
ですから結婚もしませんでしたし、子供もいませんでした。
政元には弟もいないため、後継者を考えなければなりません。
そこで公家である九条政基の末子の聡明丸を猶子(ゆうし)として迎えました。
聡明丸はのちに細川澄之と名乗ります。
細川家は澄之が継いだのですが、勝元からの血筋は途絶えてしまうことになりますね。
つまり嫡男政元で細川家には勝元の血を引く者はいなくなったということです。
洞松院
細川勝元には嫡男・細川政元の他に娘が1人いました。
この女性はあまり器量が良くなかったので、出家させられていましたが、細川政元の意向で30歳過ぎてから還俗し赤松政則の後妻として嫁いでいます。
この女性が後に女戦国大名となる洞松院です。
赤松政則との間には1女をもうけますが、赤松政則は3年後に亡くなります。
その後は赤松家存続のために、娘に義村という婿を迎えました。
義村はまだ幼少だったため、後見人として老臣の浦上則宗が実権を握っていました。
これが面白くなかった浦上村国らが、赤松勝範を擁立し挙兵するお家騒動(東西取合合戦)にまで発展したのです。
則宗の死後、義村が成人するまで洞松院が後見となるべきだと主張した別所則治の意見が通り、それからは洞松院が表立って政治をすることになりました。
ここに人知れず女戦国大名が誕生していたのです。
洞松院の娘が産んだのが晴政でした。
こうして細川勝元の血は意外にも赤松家の後継者たちに受け継がれて行ったことになります。
きょうのまとめ
細川勝元の直系の子孫は、息子政元で途絶えてしまいました。
しかし娘が産んだ子供からその血は赤松家に引き継がれて行ったことがわかります。
きっと今もその血が枝分かれし、たくさんの人に受け継がれていることでしょう。
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