源頼朝の死因は?暗殺だったのか

 

鎌倉幕府を開いた

源頼朝みなもとよりともは、1199年の1月に53歳で此の世を去っています。

その死因には、諸説あり未だに真実が見えてきません。

病死や暗殺説まで飛び交う始末です。

今回はその死因の謎について、諸説を検討してみましょう。

 

落馬が原因説

伝源頼朝像(足利直義?)
出典:Wikipedia

死因として最も有力視されているのがこの落馬説です。

1198年相模川の橋供養の帰りに落馬して、それがきっかけで亡くなったと言うものです。

落馬から息をひきとるまで17日間あったと言います。

しかしこの落馬説の内容も様々なのです。

落馬する前に原因があった

頼朝が川に差し掛かった時、脳卒中や脳に関する病が発生し、そのため落馬したのではないかと言う説があります。

落馬時の怪我によるもの

頼朝が落馬した時に打ち所が悪く、頭部を損傷したのではないかと言う説です。

この場合頭部を強打したことによる脳内出血が考えられます。

落馬による尿崩症説

落馬により頭部を損傷したとすれば、脳の中枢神経に異常をきたし、抗利尿ホルモンの分泌がおかしくなり尿崩症を起こしたのではないかと言う説もあります。

尿崩症とは多尿になる病気で、それにより口渇や多飲を引き起こす病です。

血液中のナトリウム濃度が低下するため、現代なら治療する薬もあるのですが、当時はそれが死因となる場合が多かったようです。

溺死説

文字通り、落馬により川に落ちそのまま溺死してしまったのではないかと言う説です。

相模川河口は馬入り川と言われており、馬が暴れて川に入り、そこで頼朝は落馬して溺れてしまったと言うものです。

頼朝は泳げなかったのでしょうか?

 

亡霊説

落馬とは全く別の説もあります。

頼朝は自分が死に追いやった弟の義経や安徳天皇の亡霊に祟られたのではないかと言うのです。

確かに頼朝は多くの人と戦い、多くの命を奪ってきました。

時代のせいだと言えばそれまでなのですが、やはりあまり後味の良いものではなかったでしょう。

そのせいなのか、頼朝は法華経への信仰に厚く、写経したり御経を唱えたりしていました。

実際亡霊が現れたのはどうかはわかりませんが、

精神的に弱り意識が混濁した状態で、亡霊を見たと言うことはありえるかもしれません。

 

暗殺説

源頼朝の妻は北条政子であることは、誰でも知っていますね。

性格もかなりきつい人のイメージがあります、

しかしそれ以上に政子の背後に大きな存在がありました。政子の実家である北条氏です。

頼朝の子供の頼家や実朝も暗殺されています。

頼家の子供の公暁も北条の手により殺されました。

同じように頼朝自身も北条氏に暗殺されたのではないかと言うのです。

北条により水銀を飲まされていたと言う話もあります。

これも頼朝の周りの出来事を考えると全くないとは言えないと思います。

 

きょうのまとめ

暗殺説を除いては、亡霊にしても、溺死にしても、

鎌倉幕府の頭領としては少し体裁が悪い死に方ですね。

この他にも、夜這いに行く途中不審者扱いで斬られたとか言う話もあり、頼朝を侮辱するような死因ばかりです。

そうなると落馬が原因の怪我や病気で死んだと言うことにした方が格好がつきます。

暗殺説も否定できない頼朝は、一体どのような最期を迎えたのでしょうか。
 
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