江戸時代、オランダ商館付医師・シーボルトから蘭学を学び、蘭学者として台頭した
高野長英。
長英はその学をもって、医学の発展、ならびに外威の迫る国を救おうと奔走しました。
しかし、行き着いた先はお尋ね者として追われる日々。
いったい、高野長英とはどんな人物だったのか。
どうして罪に問われてしまったのか、その生涯に迫ります。
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高野長英はどんな人?
- 出身地:陸奥国胆沢郡水沢(現・岩手県奥州市水沢)
- 生年月日:1804年6月12日
- 死亡年月日:1850年12月3日(享年47歳)
- 江戸時代、シーボルトのもとで蘭学を修めた蘭方医。幕政批判の罪で投獄されるも脱獄し、宇和島藩に仕えた。
高野長英 年表
西暦(年齢)
1804年(1歳)仙台藩水沢領主家臣・後藤実慶の三男として生まれる。
1812年(9歳)父実慶が死没。伯父・高野玄斎の養子となる。
1820年(17歳)江戸にて蘭方医・杉田伯元、吉田長淑らに師事。
1823年(20歳)借金返済のため、江戸の町医者として開業。
1825年(22歳)長崎へ留学。オランダ商館付医師・シーボルトに師事する。
1828~1830年(25~27歳)蘭学塾の主宰地を探し、九州から関西まで各地を放浪。
1830年(27歳)江戸にて蘭学塾・大観堂を開く。
1832~36年(29~33歳)『医原樞要』、『二物考』などの医学書を著述。
1839年(36歳)幕政批判の罪に問われ、投獄される(蛮社の獄)。
1844~48年(41~45歳)火事に乗じて脱獄。弟子などを頼り、関東~東北各地にに身を潜めた。
1848年(45歳)宇和島藩主・伊達宗城に乞われ、宇和島に潜伏。兵学書の翻訳、蘭学者の指導を務める。
1849年(46歳)江戸へ戻る。人相を変え、偽名を使って町医者を開業。
1850年(47歳)隠れ家に役人が押し入り、捕縛されそうになり自刃する。
高野長英の生涯
以下より、高野長英の生涯にまつわるエピソードを紹介します。
高野家への養子入り
1804年、高野長英は現在の岩手県奥州市水沢にて生を受けました。
父は水沢領主家臣・後藤実慶。
長英が9歳のころに実慶は亡くなり、長英は母の生家へと移ることとなります。
実慶と前妻とのあいだに生まれた長男が後藤家を継ぐことになったからです。
高野家へ移った長英は、伯父高野玄斎の養子となりました。
玄斎は杉田玄白のもとで学んだ蘭方医。
加えて祖父の元端も漢方医学を学んだ人で、医師を引退したあとは塾を開いていました。
長英はこのような養父や祖父から教えを受け、自然と医師への憧れを募らせていきます。
養父の反対を押し切って江戸へ
17歳のころ、長英は故郷の水沢を離れ、江戸へ蘭学修行に出ることになりました。
といっても、この江戸留学を巡ってはひと悶着あったようです。
きっかけは兄の湛斎が、藩の医師を務める坂野家の養子になることが決まり、江戸で漢方医学の修行を命じられたこと。
長英は兄の江戸留学に伴い、
と言い出したのです。
ただ、湛斎には坂野家から留学費が援助されますが、長英にそんな伝手はありません。
そのため養父らは長英の江戸行きに反対。
長英はこれを押し切って兄について行ったのです。
一説では、無尽講という組合に養父の代理で参加し、組合からの借金を頼りに江戸へ向かったという話も…。
(※無尽講…参加者が相互にお金を融通する仕組みをもった組織。貧困者救済などの目的で形成されていた)
なかなかに破天荒な少年だったようですね。
江戸での蘭学修行の日々
江戸へやってきた長英は、杉田玄白の養子・杉田伯元に師事。
このとき、内弟子になって住み込みで学ぶことを望むも、そうはいかず。
結局は養父の知人であった薬問屋に居候する形で塾へ通っていたようです。
蘭学を学ぶかたわら、夜は按摩(マッサージ)の仕事をしてなんとか食いつなぐ生活。
そうこうしながら19歳のころには、吉田長淑へと弟子入り先を改めることになります。
長英という名は、長淑から授かったもの。
江戸へきて2年、長英は師匠から名が与えられるほどの学識を身につけていたのです。
このあと、江戸で町医者を開業することになりますが、これは借金返済のため。
もとからギリギリの生活なうえ、兄湛斎が病気になってしまったため、長英は途中から看病をしながらの修行を余儀なくされていました。
その甲斐もなく湛斎は死没。
こうして長英に借金だけが残されることとなったのです。
オランダ商館付医師・シーボルトに弟子入り
借金を返済すべく、医師として開業した長英でしたが、さらに知識欲をくすぐるこんな知らせが飛び込んできます。
長崎のオランダ商館に赴任した医師シーボルトの噂です。
シーボルトはとんでもなく腕の立つ医師で、全国各地の蘭学者がこぞって教えを乞いにやってきていました。
これを聞いた長英もぜひ、シーボルトの弟子になりたいと考えますが、気になるのは留学費…。
長崎へ向かえば、さらなる借金を抱えることになってしまいます。
しかし、結局は吉田塾の同志から背中を押され、留学を決意。
「江戸で蘭学を学ぶのは、机上の兵法。長崎で学ぶのは真剣勝負。本気で西洋医学を志すなら、どっちのほうがいいと思うんだ?」
というやり取りがあったといいますよ。
長崎へ着いた長英は、オランダ語をすでに心得ていたことや、現地の通訳に伝手があったことで、すぐにシーボルトの弟子になれました。
しかも長英は塾生のなかでも抜きんでて優秀だったという話。
シーボルトが弟子たちに提出させたオランダ語論文42点のうち、11点は長英が書いたもので、その数は断トツのトップでした。
論文の内容は日本の風習や歴史、産業に関するもの。
シーボルトは日本を研究するために長崎を訪れていたため、弟子たちにその情報収集を頼ったのです。
このほか長英は1年で20冊の蘭書を翻訳したという逸話もあります。
その優秀さを称えられ、シーボルトからは「ドクトル(先生)」の称号を与えられました。
江戸にて蘭方医となる
1828年になると、「シーボルト事件」が世間を騒がせます。
シーボルトが江戸幕府の機密書類を国外に持ち出そうとしたことで、協力者の弟子たちが揃って罪に問われてしまうのです。
しかし、長英はこの危機をいち早く察知していたようで、幕府の手が伸びる前に長崎を後にしていました。
同時期に養父玄斎が亡くなっていたため、跡取りとして故郷へ戻るようにも促されていましたが、これにも従わず。
シーボルトのもとで西洋事情を詳しく学んだ長英には、そんな使命感が生まれていたのです。
長英は熊本、大分から京都までを転々とし、蘭学塾の主宰地を探して旅しました。
結局、最終的に行き着いたのは江戸。
ここで「大観堂」という塾を開き、講義や診察のあいまに医学書を多数執筆していきます。
このころに書いた医学書で特に有名なのが以下の2つ。
・『二物考』…庶民の栄養不足解決の方法を唱えた書物。ジャガイモの栽培法など
このような活動を通し、長英は蘭学者の大家としてその名を知られるようになっていきます。
蘭学者の弾圧事件「蛮社の獄」
長英が蘭学者として台頭したことは、同時に悲劇の始まりでもありました。
1839年、長英は幕政批判の罪に問われ、永牢の刑(無期懲役)に処されてしまいます。
どうしてそんなことになってしまったのか?
遡ること1837年の話、幕府は江戸湾に現れたアメリカ船・モリソン号を砲撃。
当時は「外国船打ち払い令」に基づき、日本へ近づく外国船は直ちに追い払うことになっていました。
この翌年刊行された『夢物語』という著書にて、長英がこの動向に異議を申し立てたことが問題となるのです。
長英は諸外国の植民地政策をよく知っており、有無を言わさず外国船を退ければ、戦争のきっかけになりかねないことを危惧しました。
とりあえずは外国船を受け入れ、貿易などの交渉があれば、日本の鎖国政策を説明して断ればいい。
そうすればことを荒立てずに済むと主張しています。
しかし、世間がこの主張の正当性に気づき始めるのは、ペリー来航などがあった1850年代の話。
このときは危険思想の持ち主と捉えられてしまったのです。
また、この事件にはこんな裏話もあります。
長英を槍玉に上げた幕臣・鳥井耀三は熱心な儒学信仰者で、蘭学が儒学の地位に取って代わろうとする時勢に不満を抱いていました。
そう、この一件は本来、幕政批判が咎められたというより、鳥井による蘭学者弾圧だったのです。
このとき、長英と同時に蘭学者・渡辺崋山も罪に問われています。
宇和島藩の雇われ蘭学者に
長英の投獄から5年後の1844年のこと、オランダ船を通して伝わってくるアヘン戦争の事情から、時勢は海防強化の推進へ向かっていました。
イギリスが清国を下したあかつきに、次は日本へ矛先を向けるといわれていたためです。
ここで、今こそ使命を果たすべきと捉えた長英は、ついに脱獄を決心します。
牢獄を火災が襲った際、一時的に囚人が避難させられた隙をつき、逃げ出すのです。
このとき捕えられた囚人が、長英の指示で火をつけたと供述しているのだとか。
その後、長英は弟子や昔の同志たちを頼り、上野国(群馬)から故郷の水沢まで、関東や東北の各地に潜伏したといいます。
最終的には江戸へ戻り、西洋の兵法書の翻訳に精を出すことに。
するとその評判が宇和島藩主・伊達宗城の知るところとなり、長英は宇和島藩の雇われ蘭学者となるのです。
宇和島では兵法書の翻訳のほか、砲台の設置、藩の蘭学者の指導も行いました。
しかし、長英が宇和島に潜んでいるという噂は、すぐ幕府に嗅ぎ付けられてしまいます。
こうして、1849年、長英は滞在期間1年を待たず、宇和島を後にすることとなりました。
長英の最期
宇和島を離れ、江戸へ戻った長英でしたが、このころには洋書を手に入れるにも幕府の規制が厳しくなっており、翻訳で生計を立てることはもはや不可能でした。
そのため、澤三伯という偽名を用いて町医者を務めることに。
真意は定かではありませんが、このとき、硝酸を被って顔も変えていたといわれています。
当時は整形の技術などないでしょうし、このような痛々しい方法を取るしかなかったのでしょう…。
ところが、開業した翌年の1850年、早くも長英の居場所は幕府に知られてしまいました。
同年、押しかけた役人に取り押さえられると、長英はその場で喉を掻き切って自刃したと伝えられています。
きょうのまとめ
幼少の家庭環境から医学を志した高野長英。
彼は学を修めるうちに、西洋事情に精通した自身の使命は、諸外国から国を守ることだと悟っていきました。
最後に今回のまとめです。
① 高野長英は、医師の家系で育ち、蘭学修行を志して江戸へ向かった。江戸では杉田伯元、吉田長淑らに師事している。
② 長崎のオランダ商館付医師・シーボルトの評判を聞きつけ弟子入り。論文の提出数など、抜きんでた優秀さを見せ、「ドクトル(先生)」の称号を与えられている。
③ シーボルト事件が勃発すると、危険をいち早く察知し、長崎を後にした。江戸で蘭学塾「大観堂」を主宰するかたわら、医学書を執筆し、蘭学者として台頭していく。
④ 幕府がアメリカ船モリソン号を砲撃した際、それを批判したとして投獄される。本来は幕臣・鳥井耀三による蘭学者弾圧だった。
⑤ 脱獄後、翻訳した兵法書の評判が宇和島藩主・伊達宗城の知るところになり、宇和島藩に雇われる。宇和島では翻訳のほか、砲台の設置、蘭学者の指導に功があった。
彼の主張した諸外国への対応策は幕末の世に向け、着実に活かされていくこととなりました。
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