高野長英の子孫について|後藤新平との関係は?

 

江戸時代、オランダ商館付医師・シーボルトのもとで蘭学を修め、医学や海防の発展に貢献した

高野長英たかのちょうえい

蘭学修行や講義などで日本各地を転々とし、挙句は幕政批判で投獄。

脱獄してお尋ね者になるという、いかにも波乱万丈な人生を送った人物です。

本人は非望の死を遂げることとなりましたが、子孫はその後どうなったのでしょう?
 

高野長英の子孫

高野長英

高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財
出典:Wikipedia

以下が今回紹介する人物を中心にした、高野長英の家系図です。

高野長英の系図

図のように、長英は水沢領主家臣・後藤家の生まれ。

9歳のころに実父が亡くなったため、蘭方医・高野玄斎の養子となっています。

このとき、玄斎の娘・千越ちおと婚約する形を取ったのですが、

17歳のころ、蘭学を学ぶために家を飛び出すと二度と戻らなかったため、家督が譲られることはありませんでした。

その後、長英は江戸で新しく妻を迎え、3人の子どもたちと一緒に暮らします。

しかし、お尋ね者となってしまった長英は最終的に幕府の役人に追い詰められ、その場で自刃。

妻と子どもたちは投獄されてしまい、家系は消息を絶っています。

そのため、長英の直系の子孫は現存しないのです。

 

高野長英の血縁者

高野長英には直系の子孫こそいませんが、生家の後藤家からは著名人が何人も出ています。

後藤新平

明治~大正にかけて活躍した政治家後藤新平は、後藤家の分家筋にあたる子孫。

長英から見れば遠縁の親戚です。

・罪人である長英の血縁者である

・仙台藩一門の水沢領が、戊辰戦争で新政府と対立し、朝敵となった

これらの理由から生家は没落し、幼少は世間の風当たりもきつかったといいます。

しかし、後藤は逆境を跳ね除け、猛勉強の末に医師として台頭。

その後、内務省衛生局に入り、国内の公衆衛生整備をもって、政治家として認められるようになっていくのです。

1898年からは台湾民生局長、次いで南満州鉄道総裁に。

1923年に関東大震災が起こった際には、内務大臣兼帝都復興院総裁となり、

植民地整備の経験を活かし復興支援に奔走しました。

医師から身を起こした後藤は

「国家は生き物」

と捉え、常に国民へのホスピタリティを忘れない姿勢をもった政治家だったといいます。

蘭方医として江戸の人たちを救うかたわら、海防にも貢献した長英の血筋がしっかり表れているように感じますね。

鶴見祐輔

昭和期、特に外交面で功績のあった政治家・鶴見祐輔も、長英の遠い親戚です。

東大在学中に新渡戸稲造の弟子となり、その伝手で鉄道院の役人に。

当時、鉄道院総裁を務めていた後藤新平に気に入られ、娘婿となりました。

鶴見は中学生時代に海外への憧れを強め、一心不乱に英語を勉強したという生い立ちの持ち主。

1924年、アメリカで排日移民法が施行された際に渡米し、現地の大学などで数百回にも及ぶ講演を行いました。

要はアメリカの排日感情を払拭するべく奔走していたのですが、当時のこの尽力は日本国民にはほとんど知られていなかったという話。

現代になって、鶴見のアメリカでの講演活動の功績は見直されつつあります。

その後、衆議院議員として当選し、戦後は厚生大臣に就任。

広報活動を通じて、アメリカとの関係回復にも貢献しました。

子息には社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔などの著名人もいます。

佐野碩

「メキシコ演劇界の父」と呼ばれる佐野せきは、後藤新平の娘婿・佐野彪太ひょうたの息子。

鶴見和子や鶴見俊輔とは従兄弟の関係にあたります。

東大在学中から演劇活動に興じるなか、同時に社会主義運動にも関心を示すようになった佐野。

卒業後、その過激な運動を理由に一時逮捕されてしまいます。

釈放されると、当時社会主義国の代表格であったソ連へ移り、現地で演劇活動に興じることに。

ここでも、日本のスパイであるという疑いをかけられ、国外に追放されるという稀有な経験をしました。

その後はメキシコへ亡命し、現地で演劇学校を創設

一時、コロンビア政府に招聘しょうへいされ、ここでも演劇関係者を育成するなど、多岐に渡って後進指導に尽力します。

そのままメキシコで結婚し、没年まで日本へ帰ることはありませんでした。

好きなことに邁進し、自由に生きた人という感じですね。

椎名悦三郎


昭和期の政治家椎名悦三郎は、長英の生家である後藤家直系の子孫です。

父は後藤家に婿養子に入った後藤広。

悦三郎という名は、長英の幼名からとったものだといいます。

椎名が生まれたのは明治も末の時代ですから、長英の罪人としての汚名もとっくに返上されていますよね。

その後、後藤新平の姉の嫁ぎ先である椎名家の養子となり、椎名姓を名乗るにいたります。

椎名のキャリアは、東大卒業後に農商務省へ入省するところから始まりました。

1933年には、満州国実業部へ移り、現地にて産業の調査、発展に貢献。

帰国後商工省へ入ると、満州時代の上司であった岸信介の取り立てもあり、岸とツートップで省の指揮を執っていくこととなります。

ちなみに商工省は、戦時中の物資統制、調達を担っていた部署でした。

戦後は一時公職追放を受けましたが、1957年に岸信介が内閣総理大臣になったことで、椎名も復帰。

内閣官房長官外務大臣などを歴任しました。

このときは日米安保条約の改定、日韓基本条約の締結など、戦後の国交回復に貢献しています。
 

きょうのまとめ

今回紹介した高野長英の血族たちは、揃って遠縁にあたる人物ばかり。

それでも、どこか共通点を感じる部分があるのは不思議でしたね。

最後にまとめです。

① 高野長英の子息は、長英が幕府役人に追い詰められ自刃した際、全員投獄されている。そのため、直系の子孫は現存しない。

② 政治家・後藤新平は遠縁の親戚。医師として台頭したこと、震災後、国を救うために奔走したことなど、その動向は長英の価値観に通じるものがある。

③ 血縁者には、鶴見祐輔、佐野碩などの海外で活躍した人物、椎名悦三郎のように外交に功績のあった人物などが多く見られる。

長英は当時こそ、世論のしがらみから罪人となってしまいました。

しかし、国内における西洋医学の発展、対外政策などの点で、後世に大きな指針を残したことはたしか。

遠縁とはいえ、子孫たちにもその誇りは受け継がれているのでしょう。

 
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