シーボルトとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

江戸時代後期、長崎・出島のオランダ商館付け医師として来日した

シーボルト

日本においては多くの著名な医師を育成し、医学の発展に貢献。

世界的に見ても、日本研究の第一人者としてその魅力を広め、多大な成果を残しています。

生涯を通して終始、日本研究に傾倒したシーボルトはどんな人物だったのか、日本人ならやっぱり気になるところです。

今回はその人生を辿ることで、彼の人物像を紐解いていきましょう。

 

シーボルトはどんな人?

プロフィール

シーボルト肖像画
出典:Wikipedia

  • 出身地:神聖ローマ帝国ヴェルツブルク(現ドイツ・バイエルン州ヴェルツブルク)
  • 生年月日:1796年2月17日
  • 死亡年月日:1866年10月18日(享年70歳)
  • 出島のオランダ商館付け医師として来日し、日本に西洋医学を普及させた権威。ヨーロッパにおける日本研究の第一人者。

 

シーボルト 年表

年表

西暦(年齢)

1796年(1歳)神聖ローマ帝国ヴェルツブルクにて、医学界の名門家庭に誕生する。生後間もなく父が亡くなり、母方の叔父に育てられることに。

1815年(19歳)ヴェルツブルク大学に入学し、医学を専攻する。

1820年(24歳)ヴェルツブルク大学を卒業。開業医となる。

1822年(26歳)オランダ国王ウィレム1世の侍医から推薦を受け、オランダ領東インド陸軍の外科少佐となる。

1823年(27歳)長崎・出島のオランダ商館付け医師として来日。

1824年(28歳)長崎郊外に鳴滝塾を創設し、診療・医師や学者向けの講義・植物採集などに尽力する。

1826年(30歳)オランダ商館長の江戸参府に同行。道中は日本研究に没頭し、各地の学者や医師らとも交流を深めた。

1828年(32歳)帰国直前に日本地図などの持ち出しが発覚し、拘束、取り調べを受ける。協力者も多くが投獄された。

1829年(33歳)幕府から国外追放・再渡航禁止処分を受ける。

1831年(35歳)オランダに帰着後、日本研究の成果が評され、オランダ政府から勲章を贈られる。オランダ領東インド陸軍にて日本関係の事務に従事する。

1832年(36歳)オランダ・ライデンに日本博物館を開設。日本研究の集大成『日本』を全7巻に渡って刊行する。

1844年(48歳)日本の開国を促すため、オランダ国王の親書を起草。

1853年(57歳)アメリカ海軍に艦隊司令長官ペリーの日本来航に参加を申し出るも、拒否される。

1859年(63歳)日蘭修好通商条約が結ばれ国外追放が解除されたため、オランダ貿易会社の顧問として再来日する。

1861年(65歳)幕府の外交顧問・学術教授として生計を立てる。

1862年(66歳)幕府から江戸退去を命じられ、職を失ったため帰国する。

1864年(68歳)辞職後、ヴェルツブルクやミュンヘンにて日本博物館を開催。池田長発ら幕府の遣欧使節の対仏交渉にも協力した。

1866年(70歳)風邪の悪化による敗血症で死没。

 

シーボルトの生涯

1796年、シーボルトは現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国ヴェルツブルクにて誕生します。

本名はフィリップ・フランツ・タルバザール・フォン・シーボルト。

「フォン」というのは貴族階級に与えられる称号で、その名誉のとおり、シーボルトは医学界の名門家系に生まれた子どもでした。

父と祖父はそれぞれヴェルツブルク大学の医師。

しかしその父はシーボルトが1歳のころに亡くなり、以降は地元で司祭を務める叔父に育てられることに。

またシーボルトには兄と姉がひとりずついましたが、どちらも成人するまでに亡くなっています。

実は波乱万丈な幼少期を過ごした人物だったのですね。

勉強熱心・血気盛んな大学時代

1815年、ヴェルツブルク大学に入学したシーボルトは、医学を専攻します。

当初は哲学を志望していたようですが、医師の家系に生まれ、跡取りがシーボルトしか残っていなかったこともあり、この道を選んだのでしょうね。

在学中は解剖学教授の家に下宿していたこともあり、授業以外にも動物学や植物学などを熱心に教わっていました。

また教授を通して植物学の権威などとも交流しており、この時期がシーボルトの自然科学への興味を大いにかき立てたといえます。

そんな勉強熱心な面があったかと思えば、血気盛んな部分もあり、学生との決闘を数十回に渡って行ったという逸話も…。

貴族の生れもあってプライドが高く、気に食わないことがあるとすぐケンカをふっかけていたようです。

お医者さんのイメージからするとちょっと意外。

日本への探求心からオランダ陸軍に

1820年になると、大学を卒業したシーボルトは国家試験にも合格し、ヴェルツブルクにて開業、町医者として働き始めます。

しかし地元で普通に働いていくだけの生活に、彼の探求心は満たされませんでした。

大学時代から自然科学や東洋医学に興味をもっていたシーボルトは、あるとき日本の研究をしたいと思い立ち、唯一の窓口となっていたオランダへと赴くのです。

オランダ・ハーグへとやってきたシーボルトは国王ウィレム1世の侍医に頼みこみ、彼の推薦を受けてオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命されます。

当初はインドネシア・ジャカルタの配属になったのですが、そこは陸軍総督に

「どうしても日本の研究がしたい」

と頼み込み、長崎・出島のオランダ商館付け医師になることに。

なんでも当時のオランダは貿易を有利に進めたい観点から、日本国内の情報を欲していたとのことで、日本研究に熱心なシーボルトはうってつけの人物だったといいます。

自分の欲求に素直に、どんな場面でも手を挙げていくシーボルト。

とにかく「行動、行動、行動!」というタイプの人だったのですね。

日本での生活

こうして1823年に来日したシーボルトは当初、オランダ商館の職員を診察するのが仕事でした。

しかし

「出島にすごい医者が来たらしいぞ」

という噂は瞬く間に広がり、オランダ商館のほかにも市内の施設で講義などをするようになります。

翌年には講義がそれらではまかなえない規模になったこともあり、長崎奉公の許可を得て、長崎郊外に鳴滝塾という私塾を創設。

この私塾でシーボルトは講義や診療を行うかたわら、庭園を設け、収集した植物・約1,400種類もを育てていたといいます。

また受講料と言ってはなんですが、弟子たちには日本の医学や歴史、風俗といったあらゆるジャンルをオランダ語の論文でまとめさせ、提出させる課題を与えていました。

弟子たちはオランダ語も学べるし、シーボルトの日本研究も捗るしで、持ちつ持たれつの関係だったわけですね。

オランダ商館長の江戸参府に同行

オランダ商館長には4年に一度江戸に赴き、将軍にヨーロッパの産品を献上する「江戸参府」という風習がありました。

1826年には、この江戸参府にシーボルトも同行します。

江戸への道中でまだ行ったことのない地域の研究もできると、これは彼にとって願ったりかなったりの機会でした。

このときも学生時代の血気盛んなクセが出て、研究に協力しないオランダ商館長に決闘を申し込んだなんて笑い話が残っています。

好きなことばかりに没頭する部分といい、シーボルトってある種子どもっぽいところがありますよね…。

ともあれシーボルトは、この江戸参府で各地の研究を行い、医師・学者らとの交流も深めるなかで、資料なども多く入手していきました。

ただ、このとき入手した資料の一部が、のちの大事件につながるんですよね…。

シーボルト事件・国外追放へ

1828年のこと、日本での職を終え、シーボルトは帰国の準備をしていました。

しかしこのとき、出航する予定だった船が嵐に見舞われて座礁。

足踏みしているあいだに、なんとシーボルトの持ち物に国外持ち出し禁止の資料が含まれていることが江戸で発覚し、騒動となってしまうのです。

この一件でシーボルトに資料を贈った関係者十数人が投獄される事態になり、シーボルト自身も出島にて拘束、取り調べを受けることに…。

結果として彼の収集したコレクションの多くは没収され、自身は国外追放・再渡航禁止の処分を受けてしまいます。

こうしてシーボルトは失意のなか、日本を後にするのです。

このとき妻の楠木滝、娘のイネを長崎に残していくことになったため、生活費として1千万以上の資金を置いていったなんて話も。

またイネに関しては、鳴滝塾の弟子たちにも世話をお願いしています。

残念な事件には巻き込まれてしまいましたが、この家族愛には感嘆させられますね。

再渡航・幕府の外交顧問に

オランダに帰ったあとのシーボルトは、陸軍にて日本関係の事務に従事するかたわら、日本研究の集大成である『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などを刊行。

またオランダ・ライデンに日本博物館を開設するなど、日本の魅力を広める活動を積極的に行っていきます。

このころドイツのボン大学からはヨーロッパ史上初となる、日本学の教授として招かれていますが、これはなぜか断っているんですよね。

教えるよりもっと研究に没頭したい、という感じだったのでしょうか。

これらの功績もあってか、日蘭修好通商条約が結ばれた翌年、1859年にはオランダ商館長の願い出でシーボルトの追放令が解除されることに。

こうしてシーボルトは約30年ぶりの再渡航を果たすことになります。

再渡航すると楠木滝、イネ、弟子たちとも再会を果たし、以降交流が続いていったのだとか。

また1861年には幕府の対外交渉のための顧問にも就任しています。

このようにしながら、約3年を日本で過ごしたのちシーボルトは帰国。

晩年もドイツのヴェルツブルクやミュンヘンで日本博物館を開催するなど、相変わらず日本研究に没頭していたようです。

そして1866年、ミュンヘンにて70年の生涯を終えることになります。

 

きょうのまとめ

シーボルトの生涯を辿ってみると、その半生を日本の研究に費やしていることがわかります。

日本では西洋医学の普及という功績が印象に残りますが、世界的に見れば医師というより、日本研究の第一人者のイメージのほうが強いのでしょうね。

最後に今回のまとめです。

① シーボルトは大学卒業後、町医者になったが、探求心からオランダ陸軍医に。そこから総督に願い出て、出島のオランダ商館付け医師の座を手に入れた。

② 長崎郊外に鳴滝塾を創設すると、講義や診療のかたわら、約1,400種もの植物を栽培。弟子たちには日本文化のオランダ語論文を作らせた。

③ ヨーロッパでは日本博物館の開催、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』など、日本研究の文献も刊行し、日本の魅力を広めた。

日本の研究にとにかく没頭したシーボルトは、日本への愛に溢れた人物でもありました。

診療の際も、日本人の患者からお代は一切受け取らなかったといいます。

我が国のことをここまで愛してくれた偉人がいたことを、しっかり心に留めておきたいですね。

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