ピョートル1世とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

17世紀末~18世紀前半にかけてロシアに君臨した皇帝、

ピョートル1世

現代の強国ロシアの基盤を作ったとも言えるその功績から、彼は「大帝」の称号を与えられています。

その一方で、絶対君主制度であるツァーリズムを強めていったという負の側面も挙げられます。

ピョートル1世とは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回はその生涯について、主な功績やエピソードと共に探っていきましょう。

 

ピョートル1世はどんな人?

プロフィール
ピョートル1世

ピョートル1世
在位 1682年5月7日(ユリウス暦4月27日)
出典:Wikipedia

  • 出身地:ロシア モスクワ大公国
  • 生年月日:1672年6月9日
  • 死亡年月日:1725年2月8日(享年52歳)
  • ロマノフ朝ロシアの皇帝。 ロシアの近代化と大国化を推進し「大帝」の称号を持つ。

 

ピョートル1世 年表

年表

西暦(年齢)

1672年(0歳)モスクワ大公国に誕生。

1682年(10歳)皇帝に即位。「ロシア帝国」に名称が変化。

1696年(24歳)本格的な単独統治を開始。

1697年(25歳)約1年間のヨーロッパ視察遊学を行う。

1700年(28歳)スウェーデンとの北方戦争を開始。

1712年(40歳)ペテルブルクを建設し、遷都。

1721年(49歳)北方戦争に勝利しバルト海の覇権を獲得する。

1725年(52歳)難破船の救出現場に向かい、それが原因となり後に死去。

 

ピョートル1世の生涯

ここからは早速、ピョートル1世の生涯について見ていきましょう。

彼の主な功績について挙げるなら、

・ロシアの近代化に尽力

・ロシアの領土拡大に奔走

・ペテルブルクの建設

は外せません。

以下でそれぞれについてご紹介していきます。

近代化を目指してお忍び遊学


ピョートル1世が皇帝に即位したのは、彼が10歳のとき。

しかし実際の政治は母方の貴族たちが執り行っていたため、ピョートル1世が本格的に統治を始めたのは24歳頃と言われています。

ちなみにロシアはこのピョートル1世が即位したときに、「モスクワ大公国」から「ロシア帝国」という名前に変化しました。

正式に皇帝となった彼が真っ先に考えたのが、国を近代化させることでした。

というのも、この当時のロシアはあらゆる面で他のヨーロッパ諸国に遅れを取っている、まだまだ後進的な国に過ぎなかったのです。

そこでピョートル1世は、他国の現地の実態を調査すべく、西欧使節団を組織し派遣することにします。

そしてなんと彼は自らもその中に紛れて、約1年の間各国を見て回ったのです。

こうしてロシアの近代化を図るべく視察の末に辿り着いた答えが、世界各国との貿易ルートを確保することでした。

大国化を目指し領土拡大

ピョートル1世は、ロシアの発展のために他国との盛んな貿易を行うことが重要だと考えます。

そして目をつけたのがバルト海でした。

しかし当時のバルト海貿易はスウェーデンが独占している状態。

そこでピョートル1世は、デンマークなどの他国と同盟を組んでスウェーデンに攻撃を仕掛けたのです。

これは北方戦争(1700~1721)と呼ばれ、長きに渡る戦いの末にロシアは勝利を収めます。

こうしてロシアは見事、バルト海の覇権を握ることとなったのでした。

さらにピョートル1世は、

・オスマン帝国からアゾフ海の貿易ルートを奪取

・中国との国境を取り決める条約を締結

など、貿易ルートの獲得とそれに伴う領土拡大によってロシアを大国へと導いていきました。

内政面の光と影


ピョートル1世の改革はもちろん対外面だけではありません。

後のバルト海貿易における利便性を考慮し、北方戦争最中の1712年にペテルブルク(現在のサンクトペテルブルク)を建設。

内陸にあったモスクワから、バルト海に近いペテルブルクへと首都を移しました。

他にも、

・科学技術を導入

・税制改革

・産業改革

・軍備強化

・官僚制の整備

等々、西欧視察で得た知見をもとに、主にプロイセンなどの国を手本として最新の西欧文化を導入していきました。

しかしその一方で、貴族や庶民たちに対して服装や生活様式にも西洋風を強制するなど、行き過ぎた改革により反発の声が上がっていたことも事実です。

そして、古くからの農奴制に関してはより一層強化するかたちを採ったため、皇帝の中央集権的な側面はますます強まっていきました。

このツァーリ(ロシア皇帝)によるツァーリズムが、他の西欧諸国と比べてロシアが後進性をとっていた要因でもあるのです。

皮肉にも、ロシアが近代化に向けて大きく動いたピョートル1世の時代に、ツァーリズムも確立してしまったのでした。

 

ピョートル1世にまつわるエピソードや伝説

ここでは、ピョートル1世の人物像をもう少し掘り下げて見ていくために、彼にまつわる逸話をご紹介していきます。

かなりの高身長


25歳の時に行った西欧への視察遊学。

ピョートル1世は、なかなかに知的好奇心が旺盛な人物であったことが知られています。

彼は各国の

・博物館

・病院

・裁判所

などを見学しただけでなく、

・プロイセン王国で砲術を習う

・オランダで職人として造船技術を獲得する

といったように実際に自ら積極的に体験していったのです。

中には、歯医者として患者の歯を抜くといったエピソードも残っているくらいですが、もちろん彼としてはあくまで使節団の一員としてこれらの体験をしているつもりでした。

しかし本人は上手く身分を隠しているつもりでも、実際のところ彼が現役のロシア皇帝であるということは、周囲にバレバレでした。

というのも、ピョートル1世の身長は2mを越えていたという記録が残っています。

いくら平均身長が高いヨーロッパ諸国であっても、さすがに彼と同じくらいの人はそんなに多くはいません。

ましてや一国の皇帝にそんなに大きな人物がいるとすれば、その噂は自然と広まるものです。

周囲の人々は、暗黙のうちに彼を受け入れていたのですね。

まさかの死因


好奇心旺盛で、自ら積極的に行動したピョートル1世。

そんな彼の最期は、皇帝としては意外なものでした。

それは彼が52歳の時のこと。

ある河の河口に船が乗り上げてしまったという報告を受け、自ら救助に向かったのです。

ためらうことなく飛び込み救助活動を行いますが、それがもとで後に何らかの感染症を発症してしまいました。

するとあっという間に急死してしまったのです。

皇帝の突然すぎる死に、周囲は大慌てで跡継ぎ問題にとりかかります。

息子が既に他界していたため、皇妃のエカテリーナ1世が跡を引き継ぎますが、これを機にロシアはその発展の速度を緩めることとなりました。

再びロシア帝国が他のヨーロッパと並び台頭するのは、ピョートル1世の孫の妻、女帝エカテリーナ2世が統治する頃でした。

 

きょうのまとめ

今回は、ロマノフ朝ロシア帝国の皇帝ピョートル1世について、その生涯を功績やエピソードと共にご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

何か新たな学びは得られましたか。

最後に、ピョートル1世とはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① 17世紀末~18世紀前半のロシア帝国皇帝。

② ロシアの近代化と大国化を推進し、「大帝」の称号を得た。

③ 強国ロシアの基盤を築いた一方で、専制君主的な政治体制を強めた。

とにかく積極的に行動して、バリバリ改革していった印象の強いピョートル1世。

その背景には、彼の幼少期の経験が少なからず関係していると思われます。

末っ子として生まれ、母親は後妻だったこともあり、幼少時代は宮殿の郊外で暮らしていました。

身分どころか国籍まで様々な人がいるその場所での生活が、彼の未知への挑戦をためらいのないものにしていったとも考えられるのです。

 
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