新渡戸稲造とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

かつては五千円札の肖像として、お世話になった

新渡戸稲造

お札の人というイメージも強いですが、

実際にはどんな人物だったのかご存じでしょうか。

今回は知っているようで知らない、新渡戸稲造の生涯について簡単にご紹介します。

 

新渡戸稲造はどんな人?

プロフィール
新渡戸稲造

出典:Wikipedia

  • 出身地:陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)
  • 生年月日:1862年9月1日
  • 死亡年月日:1933年10月15日(享年72歳)
  • 教育家・農政学者。国際連盟事務局次長も務めた国際人。

 

新渡戸稲造 年表

年表

西暦(年齢)

1862年(1歳)陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)で誕生(幼名、稲之助)。

1871年(10歳)太田家の養子となり、上京。

1875年(14歳)東京英語学校入学

1877年(16歳)札幌農学校入学

1883年(22歳)東京帝国大学入学

1884年(23歳)東京帝国大学中退、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学。

1887年(26歳)ドイツ留学

1889年(28歳)新渡戸姓に戻る

1891年(30歳)メリー・エルキントンと結婚、札幌農学校の教授になる。

1899年(38歳)日本初の農学博士となる。

1900年(39歳)アメリカで『武士道』を出版する。

1901年(40歳)台湾総督府技師を務める。

1903年(42歳)京都帝国大学教授となる。

1906年(45歳)東大帝国大学教授・第一高等学校校長となる。

1918年(57歳)東京女子大学の学長となる。

1920年(59歳)国際連盟事務局次長となる。

1926年(65歳)事務局長を辞任、貴族院議員となる。

1933年(72歳)カナダ・ビクトリアで死去。

 

国際人・農政家・教育者として活躍した新渡戸稲造の生涯

新渡戸稲造(幼名:稲之助)は現在の岩手県盛岡市で、南部盛岡藩士・新渡戸十次郎の三男として誕生しました。

父親は新渡戸が6つの時に亡くなっています。

帝大に満足できず中退

やがて東京で勉強するため、叔父・太田時敏の養子となります。

新渡戸はその頃から英語が得意で、14歳の時、東京英語学校(のちの東京大学)に入学しました。

さらに農業について学ぶため、札幌農学校に入学。

在学中には、内村鑑三らとキリスト教の洗礼を受けています。

札幌農学校卒業後は上京し、東京帝国大学に入学しました。

しかし、帝大の教育に満足がいかないという理由で中退しています。

世界へ羽ばたく

そして新渡戸は、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学へと留学することになります。

この留学中、クエーカー派の集会で将来妻となるメリー・エルキントンと出会いました。

その後は母校・札幌農学校の助教として、3年間のドイツ留学を命ぜられます。

ドイツではボン大学・ベルリン大学・ハレ大学で、農政学や農業経済学などを学んでいます。

そしてアメリカに戻ると、メリー・エルキントンと結婚します。

二人の結婚については、後ほど詳しく書きますね。

世界的ベストセラー『武士道』を出版

帰国した新渡戸は、札幌農学校の教授に就任します。

しかし仕事は多忙を極め、ついに脳神経症となってしまいました。

そのため職を辞し、アメリカのカリフォルニアで療養することになるのですが、このとき新渡戸は『武士道』を執筆しています。

その後、台湾総督府で技師として働き、台湾製糖業の発展に尽くしました。

さらに京都帝国大学・東京帝国大学・第一高等学校などでは、教育者として活躍しています。

さて、第一次世界大戦が終わると、国際連盟が誕生しました。

新渡戸はこの事務局次長の職に就任します。

その職を辞した後は、日本で貴族院議員としても活動。

次第に悪化していく日米関係を改善しようと尽力するも、カナダのビクトリアで病気のため亡くなりました。

 

新渡戸稲造にまつわるエピソードや伝説

それでは新渡戸稲造の有名なエピソードについて、簡単にご紹介していきましょう。

農業に目覚めた理由

新渡戸といえば、日本初の農業博士です。

札幌農学校を卒業し、ドイツ留学時にも農政学などを学んでいます。

さらに『農業本論』『農業発達史』といった著書もあります。

ではなぜ彼は、「農業」を専門としたのでしょうか。

実はこんなエピソードがあります。

明治9年、明治天皇は東北行幸の際、新渡戸の父祖ふそが行った三本木原(青森県十和田市を中心とした地域)開拓をご覧になりました。

そして明治天皇がその功績を称えたのがきっかけで、新渡戸は農政に興味を持つようになったといわれています。

確かに、天皇から先祖の仕事を褒められたら、そうなるのかもしれません。

妻の両親が大反対した日本人との結婚

新渡戸稲造の妻は、アメリカ人(白人)のメリー・エルキントンです。

出会いはジョンズ・ホプキンス大学の留学中、クエーカー派の集会に参加したときでした。

すでに新渡戸は札幌農学校時代にキリスト教の洗礼を受けており、「パウロ」という洗礼名を持っていました。

結婚式に妻の両親出席せず

二人が結婚したきっかけは、メリーが新渡戸に送った手紙でした。

新渡戸が手紙でプロポーズを受けたのです。

こうして結婚を決めた二人でしたが、当時は黄色人種と白人が結婚するなんてとんでもないという時代。

そのため、彼女の両親や兄弟から大反対を受けたといいます。

そして二人の結婚式に、彼女の両親は出席しないという徹底ぶり。

ただ二人が日本へ向かうとき、両親はついに結婚を許したのだとか。

子どもの名前はトーマス・エジソンから

メリーは結婚を機に日本人となり、新渡戸萬里子(万里子)という日本名を持ちました。

そして二人の間に男児が生まれます。

生後わずか8日で亡くなってしまったのですが、名は遠益とおますといいました。

この名前は新渡戸の友人でもあった、あのトーマス・エジソンから名付けられたそうです。

 

きょうのまとめ

今回は新渡戸稲造の生涯について、簡単にご紹介しましたがいかがでしたでしょうか。

新渡戸稲造は、

① 農政家・教育者・国際人として活躍し、日本や世界の人びとに影響を与えた

② 特に著書『武士道』は世界的ベストセラーとなり、日本の精神を世界に発信した

③ 農政の道に進んだ理由は明治天皇にあった

④ 白人女性との結婚は、相手の家族からの大反対を受けていた

こちらのサイトでは他にも、教育の分野で活躍した人物について、わかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
 
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