明智光秀と聞いて、あなたはどんな人物をイメージしますか?
知将? 逆賊? 悲運の人? 裏切り者?
光秀の生涯は謎の部分も多いために、説話や物語の人物像に多分に影響されています。
この記事を読んで、あなたは彼をどんな人物と考えるでしょうか。
明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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明智光秀はどんな人?
- 出身地:不詳(美濃国、近江国説あり)
- 生年月日:不詳(1516年説、1528年、1540年説などがある)
- 死亡年月日:1582年6月13日(生年1528年説の場合、享年55歳)
- 将軍足利義昭に仕える幕臣から織田信長へと主君を変え重臣となったが、本能寺の変で信長を討ち、直後に山﨑の合戦で羽柴秀吉軍に討たれた
明智光秀 年表
西暦(年齢)*生年1528年説を採用した場合
1528年(1歳)明智光綱の長男として誕生
1556年(29歳)斉藤義龍によって明智城が落城。浪人ののち越前の朝倉義景に仕える
1568年(41歳)足利義昭と織田信長を会見させる。足利義昭が第15代将軍となる
1571年(44歳)比叡山焼き討ちの武功で近江国(滋賀県)5万石を与えられる
1572年(45歳)近江国に坂本城築城し、居城とする
1578年(51歳)丹波国に亀山城を築城し、2つめの居城にする
1579年(52歳)丹波国を平定。のち丹後国も平定し、信長より感状をもらう
1580年(53歳)信長より丹波一国29万石を加増され、計34万石を領する
1581年(54歳)軍事パレード、京都御馬揃えの運営を取り仕切る
1582年(55歳)本能寺の変で信長・信忠父子を自害に追い込む。羽柴秀吉との山﨑の戦いで敗死
明智光秀の生涯
明智光秀は織田信長に出会ったからこそ、彼の人生が光り輝き、そして暗転します。
もちろん彼は努力で道を切り拓き、戦国の世の先頭グループを走った実力者です。
しかし、光秀の生涯は、良くも悪くも織田信長に左右されたことに違いありません。
よくわからない光秀の前半生
明智光秀には、生年、出身地、彼の出自などの明確な記録はありません。
清和源氏の血を引く土岐家の一族で、美濃国(岐阜県)出身だったとみられています(近江国説もあり)。
彼の家は、土岐氏に替わって美濃国を統治した斎藤道三に仕えていました。
しかし1556年、斎藤家の内紛で道三の息子・義龍に攻撃されて明智城は落城。
光秀は浪人の身分となりました。
貧窮した生活の末、越前国(福井県)の朝倉義景に仕えます。
1565年の将軍・足利義輝の暗殺後、義輝の弟・義昭が朝倉義景を頼ってきたことで、光秀は、義昭との接点を持ちます。
光秀、実力発揮
しかし朝倉義景は、将軍になりたい足利義昭の期待通りに動きません。
そこで光秀は、織田信長の正室・帰蝶(または濃姫)の縁者だった関係から、義昭に信長をつなぎます。
おかげで、義昭は織田信長に奉じられる形で上洛し、1568年に第15第将軍となりました。
当初、将軍義昭の幕臣であり、信長の家臣であった両属の立場にあった光秀は、いつしか信長の下で活躍し始め、重臣となっていきます。
1570年には金ヶ崎の戦いで木下秀吉と共に決死の殿を全うして信長を救い、翌年には比叡山焼き討ちで武功も挙げました。
近江国に5万石を拝領し、居城・坂本城を築いて順風満帆です。
その後も、長篠の戦い、一向一揆の平定などで活躍し、難しい丹波平定を成功させたときは、信長から感状と29万石の丹波一国を加増されています。
武功だけではなく、1581年の軍事パレード・京都お馬揃えの運営責任者として成功させたのも彼でした。
こうして光秀は、34万石持ちの大名に出世したのです。
本能寺の変と山﨑の合戦
1582年、信長から徳川家康の饗応役の任務を急に解かれた光秀は、中国地方での毛利攻めの援軍出撃を命じられます。
ところが彼は、羽柴秀吉の援軍として備中へ行かず、京都の本能寺に宿泊していた織田信長を攻撃しました。
100名ほどの近習だけに守られた手薄の信長は、光秀の1万3千の軍には適わず、寺に火を放って自害してしまいました。
同時に、信長の嫡男・織田信忠も二条御殿で明智軍と戦ったのち、自害。
光秀の謀反は成功し、彼が天下人となったのです。
すると羽柴秀吉は、信長の訃報を聞いてすぐに毛利氏と和睦をし、中国地方から京まで超スピードで引き返す「中国大返し」を実行。
光秀軍は秀吉軍と京の山﨑で激突しました。
ところが、細川氏をはじめ光秀が当てにしていた武将たちは彼に従いません。
秀吉軍3万人、光秀軍1万3千人の兵力の差に泣いて光秀軍は敗北しました。
坂本城を目指して敗走した光秀は、途中落ち武者狩りで重傷を負い、家臣の介錯による形で生涯を終えてしまったのです。
明智光秀には人望があったのか?
信長に重用されていた光秀
気性の激しい信長が、光秀につらく当たり、その怨恨が光秀の信長を襲った本能寺の変の動機だったとも言われます。
しかし、優秀な光秀が信長に重宝されていたのは事実です。
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記録『日本史』には、
・築城に造型が深く、優れた城作りの手腕の持ち主だった
と光秀を讃えるコメントがあります。
武功に加えたこれらの実力が信長に認められ、彼は34万石大名となったのです。
光秀の性格と仲間ウケは?
ところが、同時にフロイスは光秀を手厳しく評価してもいます。
・主君とその恩恵にあずかることをわきまえていた
・自分への主君からの寵愛を保ち、さらに大きくさせるための不思議な器用さを備えていた
・友人たちに人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた
・刑を科するに残酷
・殿内にあって彼はよそ者であり、ほとんど全ての者から快くおもわれていなかった
これによる光秀は、裏表のある狡猾なイメージです。
しかも、中途採用で信長軍に加わった光秀は外様として、他の武将たちから一線を引かれていたようです。
山﨑の戦いでは期待した古い友人の細川藤孝とその息子・忠興、筒井順慶などの武将たちから味方されなかった光秀の一因はここにあったかもしれません。
光秀=天海の生存説も
光秀が山﨑の戦いの後、名を変えて生きていたという生存説がいくつかあります。
中でも僧・南光坊天海となって徳川家康の幕僚として活躍した、という話はかなり根強い説の一つです。
徳川家康を祀った日光東照宮の陽明門にある随身像や建物には、葵の紋ではなく明智光秀の家紋である桔梗紋が多数見られること、徳川の時代になってから光秀に関わる者たちが優遇されたことなどがその理由です。
光秀は統治していた領民からの評判がよく、領主を慕う彼らの願いが生存説となったのかもしれません。
明智光秀の墓所
谷性寺
古刹・谷性寺は、「光秀寺」とも呼ばれる明智光秀ゆかりの寺です。
初夏には光秀の家紋である桔梗が咲き乱れ、「桔梗寺」とも言われます。
山﨑の戦いに敗れた光秀の介錯された首が当寺に葬られ、首塚はその光秀の心を鎮めるために幕末に建立されました。
<京都府亀岡市宮前町猪倉土山39>
西教寺
比叡山南東山麓にある天台真盛宗の総本山です。
1571年の延暦寺焼き討ちで焼失しましたが、その後に光秀が寺の復興に尽力したことから、光秀一族の墓があります。
毎年6月14日の明智光秀の命日には、追善供養が行われ、全国から明智光秀ファンが参列します。
<大津市坂本5-13-1>
きょうのまとめ
今回は日本史上最も有名な下克上を行った張本人、明智光秀の生涯についてご紹介しました。
明智光秀とは
① 苦労の前半生を乗り越え、織田信長の重臣となり上り詰めた34万石大名
② 本能寺の変で信長を討ち、日本史上有数の下克上を成し遂げた武将
③ 山﨑の戦いで多くを味方につけられなかった人望のなさに泣いた男
でした。
優秀で狡猾で、嫌われたかと思えば生存説が生まれるほど慕われた明智光秀。
彼の人物像は見る者によってさまざまに受け取られています。
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