三本の矢という言葉を知っていますか?
毛利元就が、死の間際に三人の息子たちを枕元に呼び、
「一本の矢はすぐに折れてしまうけれど、三本になれば簡単に折れることはない。」
つまり、「三兄弟が力を合わせて毛利家を支えていくように、喧嘩をしてはいけないよ。」
という教訓であるとされています。
元就の三人の息子たちとはどんな人だったのか、気になりませんか?
では、気になる三人の息子たちを紹介しましょう。
タップでお好きな項目へ:目次
そもそも三本の矢の話は本当?
実はこれ、実話ではなく江戸時代に作られた創作話だとされています。
けれどショックを受けないでください、
大丈夫です。
まったくの作り話でもないのです。
この逸話は、元就が三人の息子たちに書き残した、三子教訓状
というものが元になっているのです。
元就の三人の息子たちとは、
・次男:元春
・三男:隆景
です。
隆元は毛利家当主に、次男である元春は吉川家に養子として入り家督を相続、
三男の隆景も小早川家に養子として入り家督を相続しています。
「三子教訓状」は14条に渡って綴られており、元就の直筆の書状として現在も大切に保管されています。
この14条の中には、
というようなことが書かれています。
つまり「三本の矢」という記述はないものの、意味としては同じようなことを書いているのです。
元就の三人の息子たち
元就から「三子教訓状」を送られた三人の息子たちは、毛利三兄弟と呼ばれることもあり、
三人とも正室である妙玖との間に産まれた男子です。
それぞれが秀でた個性を持つ息子たちだったようです。
長男・毛利隆元
嫡男であり毛利本家を継いだ隆元は、優れた内政手腕を持っていました。
有能でありながらも、名将と言われた父親の影に隠れあまり目立たない人物です。
また派手な活躍が多い弟二人とも比較され、劣等感を持っていたようです。
しかし、この人がいなかったら「三本の矢」は成り立たなかったのではいかと思います。
財政面や、毛利家の基盤を築くために奮闘しました。
まさに縁の下の力持ちです。
弟たちの意見を取り入れ、戦のことは弟たちの方が優れているからと反対などはあまりしなかったといいます。
懐の深い、まさに「いいお兄ちゃん」ですね。
次男・吉川元春
次男の吉川元春は、猛将として知られています。
元服前のわずか12歳で、吉田郡山城の戦いに初陣しました。
父親である元就に
と言わしめるほどだったと言うから、よほど強かったのでしょう。
生涯で多くの戦を経験していますが、負け知らずだったとも言われています。
しかし、かなりの頑固者で、こうと言ったら自分の意見を曲げなかったという話も伝わっています。
頑固で戦に強い猛将、ある意味分かりやすい人物かもしれません。
三男・小早川隆景
毛利元就の気質を一番に受け継いだのが、三男・小早川隆景だと言われています。
危ない戦いはせずに、はかりごとで相手を屈服させるのが大変上手かった、と言われていることから、
父親に負けるとも劣らない知将だったことが伺えます。
隆景の大きな功績のひとつとされているのが、「毛利水軍」です。
知略をもって、小早川水軍・大内水軍さらには村上水軍をも取り込み瀬戸内の海を支配下に置きます。
これにより毛利家は戦いを有利に進めることが出来るようになったのです。
次男・元春と隆景が協力し合うことで「毛利両川体制」と呼ばれる確固たる体制が出来上がります。
きょうのまとめ
まさに三者三様、個性的な毛利三兄弟でした。
長男・隆元は政治、次男・元春は武勇、三男・隆景は知略、誰か一人が欠けても成り立たない、
まさに三本の矢になるべくして産まれたような兄弟です。
元就は、息子たちの才能を分かった上で「三子教訓状」を残したのかもしれません。
目次に戻る ▶▶
関連記事 >>>> 「毛利元就とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
吉川元春の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「吉川元春とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
小早川隆景の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「小早川隆景とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
その他の人物はこちら
戦国時代に活躍した歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【戦国時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
時代別 歴史上の人物
関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」
・三人のうち一人や二人が生き残っていても何の意味もない。そうなれば毛利家は滅んでしまう
・養子に行って他家を継いでいる元春・隆景も、毛利があってこそということを忘れてはいけない
・隆元は、元春と隆景を頼りにし、元春と隆景は隆元に従いなさい