戦国時代の女性、淀殿(よどどの)をご存知でしょうか?
浅井三姉妹の長女としても、豊臣を滅亡に導いた悪女としても有名です。
どんな人物なのか詳しく知らない、と言う方も多いかもしれません。
今回は淀殿とはどんな人物なのか、見ていきましょう。
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淀殿はどんな人?
淀殿
出典:Wikipedia
- 出身地:近江国小谷(現在の滋賀県長浜市)
- 生年月日:1567年
- 死亡年月日:1615年6月4日(享年50歳)
- 数奇な運命を辿った悲運の姫君
淀殿 年表
西暦(年齢)
1567年(1歳)近江国小谷に生まれる。(本名、茶々)
1573年(7歳)織田信長に攻められ小谷城落城。父・浅井長政が自害する。
1582年(16歳)母・お市が柴田勝家と再婚する。
1583年(17歳)対立した羽柴秀吉に攻められ北ノ庄城落城。柴田勝家とお市の方が自害する。
1588年(22歳)豊臣秀吉の側室となる。
1589年(23歳)秀吉との第一子・鶴松を出産する。淀城に移り淀殿と呼ばれるようになる。
1591年(25歳)鶴松が死去。
1593年(27歳)秀吉との第二子・捨(秀頼)を出産する。
1598年(33歳)豊臣秀吉が死去。大阪城で秀頼の後継をつとめる。
1600年(35歳)関が原の戦いで西軍が敗戦し、領地を大きく削られる。
1614年(49歳)方広寺鐘銘事件により、大阪冬の陣が起こる。
1615年(50歳)大阪夏の陣で秀頼と共に自害する。
数奇な運命を辿った悲運の姫君
浅井茶々(淀殿)は浅井長政とお市の間に生まれました。
幼少期に2度の落城を経験し、父親と母親を自害によって亡くします。
母・お市が柴田勝家と共に自害すると、羽柴秀吉に保護されます。
しかし秀吉は言ってみれば「親の敵」です。
親の敵に保護されると言うのは複雑な気持ちだったことでしょう。
それから秀吉の側室になり第一子を授かった祝いとして、山城国の淀城を秀吉から譲り受けます。
このことから「淀殿」と呼ばれるようになりました。
豊臣家を滅亡に導いた女性としてのイメージの方が強い淀殿ですが、
自分の城を攻めてきた秀吉の側室となって子供を生むという、数奇な運命を辿った悲運の女性なのです。
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淀殿にまつわるエピソードや伝説
淀殿にまつわるエピソードや伝説を集めてみました。
母・お市に似て美人だった
淀殿は絶世の美女と言われたお市に似て美人だったと言われています。
また、淀殿(茶々)・江・初の浅井三姉妹のなかでも、最もお市に面差しが似ていたとも言われています。
以前から美しいお市に憧れを抱いていた秀吉が、お市に一番似ている淀殿に執着し、側室にしたと言うエピソードは定番ですよね。
妹たちを先に嫁がせたのは、淀殿を最後に残すことで「婚期を逃した」と淀殿を焦らせるための工作だったとも言われています。
ドラマでも、なんとか淀殿の気を引こうとする秀吉が描かれることが多いのはこう言った理由からなんですね。
本来であれば秀吉とは身分も違うお姫様です。
どうしても側室にしたいと思うのも、分からなくもありません。
秀頼は秀吉の子供ではない?
淀殿のエピソードとして外せないものがあります。
淀殿の生んだ子供は秀吉の子供ではないと言うのです。
秀吉には正室に14人の側室が居たとされていますが、
その中で秀吉との子供を生んだのは南殿という側室と淀殿だけなのです。
しかも淀殿が秀頼を生んだ時に秀吉はなんと59歳!
ただでさえ、ずっと子供が出来なかった秀吉に59歳で子供が出来たとあっては疑いたくなるのも当然です。
そのため、当時から不義の噂が絶えなかったと言います。
秀頼の本当の父親は、石田三成ではないかという説や
乳兄弟である大野治長ではないかという説がありますが
今となっては確かめる術はありません。
「淀君」は遊女の呼び名
淀殿は「淀君」と言われることも多いです。
実はこの淀君という呼び方は遊女の呼び方で、昔は遊女のことを「遊君」や「辻君」と言っていました。
淀君の「君」は遊女の「君」からきています。
先に述べたように、ずっと子供の出来なかった秀吉の子供を身ごもったことにより
淀殿には不義の噂が付きまといました。
淀君という呼び方が定着したのは明治時代だと言われています。
当然ですが、当時の資料には「淀君」と書かれているものはありません。
淀君とは、淀殿にとっては不名誉な呼び方なのです。
きょうのまとめ
淀殿についてまとめてみました。
淀殿とは?
① 数奇な運命を辿った悲運の姫君
② お市に似て美人だった
③ 秀頼は秀吉の実子ではないという噂があった
④ 不義のイメージから「淀君」と呼ばれた
その他の記事についても淀殿にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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