毛利元就の居城はどこ?

 

毛利元就の居城ってどこだと思いますか?

毛利家というと長州藩、今の山口県じゃないの、
と思う方が多いかもしれませんが毛利元就は安芸(あき)、今の広島県の大名です。

なので、もちろん毛利元就の居城も広島県にあります。

居城というと、主に生活した城ですが、
実は毛利元就は3つの城を転々としたのです。

どういうことか、見ていきましょう。

 

毛利元就が暮らした3つの城

3つの城を転々とした、とはどういうことでしょうか?

どうして3つも城を転々としたのか、
どんな城で暮らしていたのか、興味が湧いてきますよね。

毛利元就が暮らした3つの城を順番に紹介します。

鈴尾城(すずおじょう)

鈴尾城は、
広島県安芸高田市福原にある山城です。

別名、福原城(ふくはらじょう)。

天守閣はなく、
城郭構造(じょうかくこうぞう)は連郭式山城(れんかくしきやまじろ)です。

築城は1381年頃ではないかとされています。

正面に江の川が流れ、
それが堀の役目を果たし、天然の要害(ようがい)となっています。

この鈴尾城は毛利元就の母親の実家で、
元就はこの城で産まれました。

少しの間ですが、
毛利元就はこの城で過ごしたことになります。

1600年関が原の戦いで、
毛利氏が加勢した西軍が負け、
毛利氏の移封(いふう)に伴い廃城となるまでの間、
毛利家の重臣であった福原氏が治めました。

多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)

多治比猿掛城は、
広島県安芸高田市にある山城です。

築城年数は不明。

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)の支城として造られました。

山頂には物見丸があり、
戦国時代にはとても重要な役割を持つ城だったようです。

しかし元就にとっては、
あまり良い思い出のない城かもしれません。

この城で過ごした時期は、
元就にとって不遇の時代とも言えるのです。

父親である毛利弘元(もうりひろもと)は、
幕府と当時有力大名だった大内氏の勢力争いに巻き込まれ、危機に陥ります。

そこで弘元は、
嫡男である毛利興元(もうりおきもと)に家督をゆずり、
隠居という形をとって、事なきを得るのです。

次男であった元就(当時の幼名は松寿丸)は、
父親と一緒に多治比猿掛城に入城します。

しかし安心したのもつかの間、
翌年には実母が亡くなってしまいます。

この時の元就は、わずか5歳です。

さらに良くないことは続き、
5年後には父である毛利弘元も亡くなってしまします。

10歳であった元就は、
幼いながらも多治比猿掛城の城主となります。

これで一安心かと思いきや、
今度は家臣からの裏切りで、自分の城から追い出されてしまいます。

このせいで生活は大変厳しいものになり、
「乞食若殿」と陰口を言われることもあったといいます。

その後、養母の力添えもあって、
元就は元服し城に戻れることになります。

この時、
元就は多治比元就(たじひもとなり)と名乗り、同時に分家を起こします。

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)

吉田郡山城は、
広島県安芸高田市吉田町吉田にある山城です。

築城年数は不明。

郡山全体に及ぶ巨大な城郭だったことが分かっています。

毛利輝元(もうりてるもと)が広島城へ移るまでの間、
毛利氏の居城として使用されました。

尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪(くるわ)がある複雑な縄張りを持っており、
当時のほかの城にはない独特な特徴を持っています。

元就がこの城を居城とするまでにも紆余曲折(うよきょくせつ)があるのです。

毛利家嫡男であった、兄の興元が急死し、
家督を継いだのは興元の嫡男であった幸松丸(こうまつまる)です。

しかし幸松丸はまだ幼かったために、
叔父である元就が後見役となります。

幼い当主に、毛利家は動揺します。

その隙をついて攻めてきた、
武田元繁(たけだもとしげ)の軍を元就は、巧みな知略で撃退します。

毛利家当主であった幸松丸が9歳で死去すると、
元就が毛利家の家督を継ぐことになります。

家督を継ぐにあたり、元就は吉田郡山城に入城します。

この時に多治比元就から、
初めて毛利元就と名乗るのです。

きょうのまとめ

いかがでしたか?

戦略家で知的なイメージのある毛利元就ですが、意外と苦労人であることが分かりました。

母の実家の城で産まれ、父の隠居先の城では家臣に追い出されます。

「乞食若殿」とまで呼ばれた元就が、最終的には当主となって、

毛利家の本城に戻った時の気持ちはどんなものだったのでしょうか。

 

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