現代の日本は少子化が問題となっていますが、昔の人は子だくさんでした。
戦国大名北条氏康には、14人の子がいたとみられています。
そこで今回は、北条氏康の妻とその子どもたちについて、簡単に紹介していきます。
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正室・瑞渓院は今川家出身
北条氏康の正室は、瑞渓院という人物です。
瑞渓院というのは戒名であって、実名は伝わっていません。
北条氏康とは又従兄弟の関係
北条氏康の妻、瑞渓院の父は今川氏親です。
氏親は北条早雲の甥にあたり、氏親の母北川殿は、早雲の姉にあたります。
母は女戦国大名とも呼ばれ、今川義元の母でもある寿桂尼と考えられています。
したがって氏康と瑞渓院は、又従兄弟という関係にありました。
そんな二人の婚姻は1535年頃、いわゆる政略結婚です。
当時、北条家と今川家は甲斐の武田信虎(武田信玄の父)に対抗するため、両者の関係を強める必要があったからです。
子どもは6人?
氏康と瑞渓院との間には、6人の子どもができたと考えられています。
- 新九郎氏親
- 氏政
- 氏照
- 氏規
- 七曲殿
- 早川殿
長男と考えられている新九郎氏親は、16歳という若さで亡くなっています。
代わりに氏康の後を継いで後北条氏の当主となったのが、次男の氏政でした。
また早川殿というのは、甲相駿三国同盟で今川家に嫁いだ女性。
彼女は母親の実家に嫁いだというわけです。
子を産んだ側室は二人?
北条氏康の側室で、子どもを産んだと考えられている女性は二人います。
上杉景虎の母
まず一人目は氏康の側近・遠山康光の妻の妹とみられています。
この女性との間にできたのは、上杉景虎です。
景虎は、上杉謙信と越相同盟を結んだ際、その条件として謙信の養子となった人物。
同盟はほどなくして破棄されますが、景虎は上杉家に残りました。
北条氏邦の母
もう一人の側室は、氏康の側近・三山綱定の姉妹とみられます。
二人の間にできたと考えられてるのは、北条氏邦。
氏邦は武蔵の有力国衆・藤田家の婿養子に入り、鉢形城を構築したとされています。
小田原合戦では鉢形城で、羽柴軍を迎え撃った人物です。
母親が伝わっていない子ども・養子
今紹介した以外にも氏康の実子としては、
- 千葉親胤妻
- 太田氏資妻(長林院)
- 足利義氏妻(浄光院殿)
- 武田勝頼妻(桂林院殿)
といった女子がいましたが、母親はわかっていません。
もしかしたら今挙げた女性以外にも、妻がいたかもしれません。
さらに、氏忠と氏光という養子(弟・氏堯/うじたかの子?)もいたとみられています。
きょうのまとめ
今回は北条氏康の妻とその子どもたちについて、簡単に紹介しました。
② 側室二人との間には、それぞれ上杉景虎・北条氏邦をもうけた。
③ 他にも母親が不明の子どもと養子がいた。
こちらのサイトでは他にも、北条氏康にまつわる記事を書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。
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