松平定信とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近年、前任の老中である田沼意次(たぬまおきつぐ)の評価が高まるにつれて、その評価をじりじりと下げてしまっている人がおります。

松平定信(まつだいらさだのぶ)です。

昔は
幕府の三大改革主導者の一人

としてたたえられたのですが、

実際のところはどうだったのでしょうか。

 

松平定信はどんな人?

  • 出身地:江戸(現在の東京都)
  • 生年月日:1759年1月25日
  • 死亡年月日:1829年6月14日(享年70才)
  • 江戸後期の政治家。寛政(かんせい)の改革を行った。

 

松平定信の年表

年表

1759年(0才)松平定信生まれる

1767年(8才)田沼意次、幕府の実権を握る

1786年(27才)田沼意次、失脚する

1787年(28才)松平定信、老中首座・将軍輔佐(ほさ)に就任する

1793年(34才)松平定信、老中首座、将軍輔佐を解任される

1829年(70才)松平定信、死去

 

松平定信は徳川吉宗の孫。将軍候補ともされた早熟のエリート!

松平定信は徳川御三卿(ごさんきょう)の一つ田安(たやす)家、徳川宗武(むねたけ)の七男として生まれました。

あの徳川吉宗の孫にあたります。

幼いころからかなり賢かったらしく、

やがては田安家の当主に、
さらには江戸幕府十代将軍徳川家治(いえはる)の跡取りに、

と期待されたようです。

やがて15才で陸奥白河藩(現在の福島県白河市)に養子へ。

そして、早熟の定信はもうこの頃から田沼政治を批判し、目の敵にしておりました。

定信はものすごくまじめな優等生です。

それに比べると田沼本人はどうか知りませんが、田沼がつくり上げた世は
「チャラさ」
がぬぐいされません。

わいろまで横行してしまっております。

寛政の改革

定信、27才の時、ついにあのにっくき田沼が失脚いたします。

さあ、定信の時代がやってきました。

翌年、28才という若さで、老中首座(今でいう総理大臣のようなもの)・将軍輔佐となると、改革に乗り出します。

まずは、手近にせまった問題として天明の飢饉への対策です。

「囲米(かこいまい)」……諸藩の大名にコメの備蓄を命じます。
「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」……江戸にいっぱい流入していた人たちが元いた農村に帰って田畑を耕せるように、お金をほどこします。

そして、田沼政治よサラバ!

「株仲間の解散」……田沼政治の代名詞”株仲間”いわゆるカルテルをなくす。株仲間は田沼時代にわいろの広まる原因でもあった。

また、旗本・御家人の暮らしを守ります。
「棄捐令(きえんれい)」……旗本・御家人(はたもと・ごけにん。ともに幕府配下の武士)の借金の帳消し、または利子を減らす。

さらには、犯罪者の更生施設を造ります。
「人足寄場(にんそくよせば)」……犯罪者に職業訓練などをほどこし、再就職を支援する。再犯を少なくする。

そうした一方で、
思想統制にもがんばりました。

彼は儒学の一種である朱子学こそが武家復活のキーポイントと考えておりました。
朱子学といえば「忠」。
目上の者を敬う(うやまう)心です。

当時、一番上の階級である「武士」ひいては「将軍家」が重んじられますね。
「あとの『儒学』は全部いらねえ!」
というちょっと乱暴な論理です。

こういうちょっと押しつけがましいところが、後々になって自分の首をしめてしまうことになります。

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松平定信失脚とその後

のやり方はやはりおじいさんの徳川吉宗を参考にした部分が多いのでしょうか。

質素倹約は結構なのですが、なぜかそれを関係のない庶民にまできっちり押し付けます。

「あれはダメ。これもダメ」
贅沢(ぜいたく)は敵だ!

ものすんごいまじめで、ストイック。
それだけ大した人ではあるんですが。

徳川吉宗の時と一緒で、庶民は不況におちいり、不満が渦巻きます。

さらに、朝廷にまで得意のうんちくでいちゃもんを付け、それが元で時の将軍家斉(いえなり)までもが
「こいつのやることにはもうついていけねえな」
となります。

そして、とうとう失脚。

その後、定信は彼のお膝元、白河の藩政に専念します。

彼はこの白河において、
天明の飢饉において、藩内に一人も餓死者を出さなかった。

そして、
元々内陸で産業にとぼしい藩に馬などの特産品を興した。

などとして名君の誉れが非常に高いです。

もし、幕府でも彼の権勢がもっと長かったら、実績も全国での評判ももっと変わったものになっていたかもしれません。

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きょうのまとめ

彼はとんでもなく「できる男」です。
砲術・体術・弓術・絵画・和歌……、まあそれはそれは多芸に究めた人です。

ただ、それでもおちいってしまう「落とし穴」があるようです。

① 松平定信は徳川吉宗の孫であり、将来の将軍候補にもなったエリート

② 松平定信は寛政の改革を率先して行ったが、ちょっと押しつけがましいところがあり、失脚した

③ 松平定信はお膝元白河では大変な実績を残した名君である

いかがだったでしょう。
末永く「生きる」なら、やはり視野の長さ、大きさ、強さは不可欠だと思います。

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