後白河法皇と平清盛。
強烈なキャラクターの二人は、手を組む時期もあれば、険悪だった時期もあります。
強大な力を持っていた2人の結びつき方はとってもビジネスライクでした。
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実に気の抜けない関係
後白河法皇の在位期間と平清盛が亡くなるまでの活動期間におきた、大きな事件や天皇の交代劇があるたびに、二人の関係に変化があります。
逆に言うと、彼らの関係性が変わると「何かが起きていた」わけなんです。
様子見の清盛 保元・平治の乱(1156年、1159年)
皇位継承問題や摂関家の内紛が原因で争った「崇徳上皇 vs 後白河天皇」の保元の乱。
清盛ばかりを引き立て、同じく功績のあった源義朝をないがしろにしたことがその次の平治の乱の一原因でした。
・院の近臣、信西への反感
・二条天皇親政派と後白河上皇院政派の確執
などが絡み合い、藤原信頼と義朝が共に乱を起こします。
清盛はそれをすぐに鎮圧。
信西は自害、義朝・信頼は処刑され、清盛は囚われていた二条天皇を奪還し、後白河上皇を自由にしました。
その結果、義朝軍はなくなり、二条天皇と後白河上皇のそれぞれの勢力は有力な側近たちを失い、勢力争いは鎮静化します。
清盛は誰にもつかず、天皇と上皇の力を見比べながら要職を平氏で占め政治力を蓄えました。
ゴリ押しの皇位継承と婚姻の画策
二条天皇は、皇子が生まれると譲位して六条天皇とし(1165年)、上皇になりましたが、すぐ崩御しました。
六条天皇は母親の身分が低いために政権が不安定だったので、後白河院と平清盛が手を組み、画策します。
後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁(のりひと)親王を高倉天皇に即位(1168年)させたのです。
後白河院にとっては、寵愛する平滋子との息子を天皇にして院政が実行できればハッピー。
清盛も、平滋子(義妹)の息子が天皇になれば、自分に有利、と利害は一致です。
彼らの下心が「甥っ子から叔父への不自然な皇位継承」を実行しました。
ここに、クセの強い二人をつなぐ平滋子の存在があったのです。
やがて清盛と滋子の姉である時子夫婦の娘、徳子が後白河院の養子に入り、息子の高倉天皇の后になりました。
これでは「高倉天皇の后は妹」になり、無理矢理感全開です。
しかし、この婚姻は、清盛の娘が天皇の后になり、後白河院も徳子を自分の影響下にいれて発言力を確保できるという苦肉の策でした。
宗教面では気が合うフリ?
平治の乱の後、後白河上皇は信仰にのめり込みます。
再三の熊野詣に加え、1164年には蓮華王院(三十三間堂)を造営。
これは清盛の潤沢な資金による創建です。
1168年には清盛が病気平癒を願って延暦寺で出家。
翌年1169年には後白河上皇が園城寺で出家して法皇となります。
後白河院は、強訴を繰り返す延暦寺の力や、清盛と延暦寺との関係を避けて園城寺を選んだのです。
後白河院と清盛は、表面上はあくまで関係良好。
2人は東大寺にて同時受戒まで行なって、協力体制の盤石性を示したのです。
意気投合することもあった?
2人は共に「好奇心旺盛の新しい物好き」でした。
後白河院は清盛の日宋貿易に理解を示し、貴族たちの反対を抑えて協力しました。
清盛は商売としての貿易に熱心でしたし、後白河院は宋からもたらされる珍しい宝物が大好き。
後白河院の後押しで、日宋貿易は本格的な公のビジネスとなります。
1174年、後白河院は滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するという前代未聞のことを実行しています。
院が滋子を寵愛したこと、清盛への政治的配慮、そして単純に厳島神社を見てみたいという好奇心が形になった旅でした。
我慢の限界、清盛
滋子が病没すると、後白河院と清盛との関係は悪化します。
1177年に鹿ヶ谷で平氏打倒の密議あったことが清盛に発覚。
謀議のメンバーは藤原成親(なりちか)、西光、俊寛など後白河院の院の近臣たちで、参加者はすぐさま清盛によって捕えられ、処刑や配流など厳しい処分が下されました。
清盛は、何も知らないとしらを切る後白河院には手出ししない代わりに、彼の側近を一挙になくしたのです。
後白河院も負けていません。
同年、清盛の娘である盛子と平重盛が相次いで亡くなると、彼らの持っていた財産や領地を取り上げました。
その露骨なやり方に、清盛だけではなく、公家たちもびっくり。怒りまくった清盛はついにクーデターを起こします。
これが治承3年の政変です。
清盛は高倉天皇の公式命令を利用して、後白河院の決定を全て無効にし、院を鳥羽殿に幽閉しました。
後白河院の院政がストップしたわけです。
清盛と後白河院との関係はもう修復不可能でした。
清盛の死をもって終戦
その後、高倉上皇は病気で崩御。
清盛はその直前から後白河院の力を弱めようと院の近臣の解官や、後白河院に近い園城寺・興福寺を焼き払うなどしていたのですが、自分自身が病気になってしまいます。
そして後白河院の第三皇子、以仁王(もちひとおう)の平氏追討の令旨を知りながら清盛は無念のうちに熱病にて死没(1181年)。
こうして後白河院は清盛の重圧から解放され、政務のできない幼い安徳天皇のために院政を再開することになったのでした。
おわりに
ある時は清盛と意気投合し、またある時は謀略の限りを尽くした後白河院。
最後は、清盛の死を最も喜んだ人物だったかもしれません。
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