平清盛はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

「平家物語」で有名な平家一門。

富と権力で政治を独占し、武家として初めて政治の表舞台に立った

平清盛たいら の きよもりとはどんな人物だったのでしょうか。

900年の時を遡ります。

 

平清盛はどんな人?

プロフィール
平清盛

平清盛
出典:Wikipedia

  • 出身地:山城国 京(現在の京都市)など諸説
  • 生年月日:1118年1月18日
  • 死亡年月日:1181年閏2月4日(享年64歳)
  • 日本の政治の中心を公家から武家へと動かした男

 

平清盛 年表

年表
西暦(年齢)

1118年(1歳)平忠盛の嫡子として誕生。

1153年(36歳)父・忠盛が死去し、平氏の棟梁を継ぐ。

1156年(39歳)保元の乱。後白河天皇側につき源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ。

1159年(42歳)平治の乱。源義朝に勝利。

1167年(50歳)太政大臣となるが3ヶ月で辞任。

1169年(52歳)福原(現・神戸)に別荘を造営し、住まいとする。

1177年(60歳)鹿ヶ谷の陰謀発覚。平家に対立する院近臣を一掃し、後白河法皇との対立が深刻化。

1179年(62歳)長男・重盛死去。清盛、後白河法皇を幽閉、院政を停止する。

1180年(63歳)京から福原への遷都をするが、6ヶ月で京に戻る。源頼朝が伊豆で挙兵。富士川の戦いで平家敗走。

1181年(64歳)熱病で死去。

 

太政大臣になり栄華を極めるが、反感を受け源氏の挙兵を招く

平清盛は伊勢平氏の血筋にある、平忠盛の長男として誕生。

のち棟梁となりました。

保元の乱・平治の乱

1156年、後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承問題が原因で保元の乱が勃発。

清盛は源義朝と共に後白河天皇側につき、崇徳上皇側との戦いに勝利しました。

そして1159年に平治の乱が起こります。

保元の乱後の待遇に不満のある源義朝が挙兵したのです。

清盛の留守中に義朝は自分の出世を妨げる後白河法皇の参謀・藤原信西しんぜいを自害に追い込み、法皇を幽閉。

急ぎ戻った清盛は法皇を奪還し、かつての盟友義朝を討伐します。

彼の息子・源頼朝は伊豆へ流罪に。

武家として初めて太政大臣に

1167年、清盛は武家として初めて太政大臣となります。

翌年に重病となりますが快癒後出家し、福原で日宋貿易による財政基盤を開拓。

宋銭を流通させ通貨経済の基礎を築きました。

また清盛は天皇家と外戚関係を持ち、孫の安徳天皇の外祖父としてさらに権力を強化。

しかし、平氏の力を警戒する後白河法皇と清盛の関係は悪化します。

法皇を中心にした清盛襲撃の陰謀が発覚した鹿ヶ谷事件が起き、清盛は理不尽な行為を続ける法皇を幽閉(治承三年の政変)。

反平氏勢力の者を全て解任。

後白河院政を完全にストップさせ、政権を独裁しました。

しかし繁栄しすぎた平氏への周囲の反感は強まり、ついに以仁王もちひとおうの反乱を機に源氏が再起します。

各地で源氏が挙兵する中、清盛は1181年に熱病で死亡。

壇ノ浦で平家が滅亡する4年前でした。

 

平清盛にまつわるはなし

清盛と後白河法皇の関係亀裂があらわになった事件と、清盛の意外な一面をご紹介します。

鹿ヶ谷事件のあらまし

1177年に京都で起こった平家打倒の陰謀事件です。

後白河法皇派の者が、延暦寺系列の寺を燃やしたことが発端で延暦寺と対立した後白河法皇。

後白河法皇が天台座主てんだいざす(延暦寺の住職で一門の統括)を伊豆へ流罪にしたことで延暦寺は激昂します。

助けを求める後白河法皇を断り切れず、清盛は延暦寺に向け兵を動員。

そのとき密告により、鹿ヶ谷にある山荘に集まっていた後白河法皇と院の近臣による清盛討伐の陰謀が発覚します。

そこで清盛は延暦寺にむかうはずの兵力をそのまま鹿ヶ谷に送り、山荘を襲撃。

その場にいた法皇の重臣たちを捕らえ、重要人物の僧侶西光さいこうを処刑、藤原成親なりちか俊寛しゅんかんは島流しに。

後白河法皇だけはさすがに不問にされました。

この陰謀事件は実は「清盛が法皇の近臣排除のために画策した」とも言われます。

平清盛「いい人」説

「平氏にあらずんば人にあらず」

平氏の奢りを象徴するような清盛の参謀・平時忠の言葉です。

やたらとその悪いイメージが先行しがちな平氏。

でも清盛は実は温厚な人物だったのでは、という説があります。

身分の低い者をその家族や知人の前で一人前の家臣として扱い、本人がとても喜んだ話。

幼い従者を自分の衣の裾に寝かせ、朝寝坊してもそのまま寝かせてやった話など。

心温まる逸話も多く残っています。

また、迷信のために命を無駄にせぬよう人柱ひとばしら(工事の無事の完成のために生き埋めにされる人)を廃止。

それに清盛は平治の乱に勝った後も、敵将源義朝の息子たち源頼朝や義経を殺しませんでした。

平氏の行く末を思えば「痛恨の温情」だったわけなんですが。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

平清盛とは、

① 日本の政治を貴族から武士が中心の政治へと変えた男

② 的確な政治的状況判断のできる策謀家

③ 個人を大切にする温厚な面もあった人物

その他にも平清盛にまつわる記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

目次に戻る ▶▶
 

関連記事 >>>> 「平清盛の一大事業 日宋貿易と港づくり」

 

その他の人物はこちら

平安時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

six + eighteen =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku