源頼朝を支えて鎌倉幕府創設に貢献した
和田義盛。
彼の活躍具合、そしてどんな人物だったのかを見て参りましょう。
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和田義盛はどんな人?
- 出身地:不明
- 生年月日:1147年
- 死亡年月日:1213年5月3日(享年67歳)
- 源頼朝の挙兵に加勢し、鎌倉幕府における初代侍所別当となった。源平合戦でも活躍した武勇の者だったが、頼朝死後に2代目執権北条義時によって和田一族もろとも討伐された
和田義盛年表
西暦(年齢)
1147年(1歳)三浦義明の孫、杉本義宗の子として誕生
1180年(34歳)源頼朝の挙兵に協力する。鎌倉幕府の侍所の初代別当に就任
1184年(38歳)平家討伐のための源範頼軍に従軍
1185年(39歳)平家追討軍に加わり芦屋浦の戦い、壇ノ浦の戦で活躍
1189年(43歳)奥州合戦にて藤原氏討伐を行う
1199年(53歳)
正月、第2代将軍に源頼家が就任し、義盛が幕府の新指導体制である十三人の合議制に宿老として列する。
10月、梶原景時弾劾の中心人物となる
1203年(57歳)比企能員の変にて比企氏討伐軍に参加。
比企氏滅亡後の源頼家の北条氏討伐の御教書に従わず北条氏に味方し、頼家追放のきっかけとなる。源実朝が将軍、北条時政が初代執権に就任
1205年(59歳)畠山重忠の乱。重忠討伐軍の大将として出陣。北条時政失脚のあと、北条義時が第2代執権に就任
1213年(67歳)北条義時に対し決起(和田合戦)するも、幕府軍により和田一族は滅亡
和田義盛の生涯
源頼朝の挙兵時から頼朝を支え、幕府成立後も初代侍別当となって有力御家人として主な戦いに関わったのが和田義盛です。
誕生から源平合戦・奥州合戦での貢献
和田氏は関東地方で武家として発展した板東八平氏の1つ三浦氏の支族です。
和田義盛は、杉本義宗の長子として誕生。
「和田」と呼ばれる相模国、もしくは安房国の所領を持っていたことから和田姓となりました。
1180年、源頼朝が平家討伐に挙兵します。
34歳の義盛は叔父の三浦義澄らと共に加勢しようとします。
しかし初戦となる相模国の石橋山の戦いには悪天候が原因で合流できず、頼朝は敗走。
義盛らは頼朝と房総半島で合流。
再起を賭けた頼朝の使者となって有力勢力の上総広常を味方に呼び込みました。
その功もあって駿河国での富士川の戦いでは頼朝軍が平家軍に大勝。
頼朝による鎌倉幕府創設の際に義盛は初代侍所・別当(関東一円の御家人たちを統率する機関の長官)に任じられ、重要御家人となりました。
その後も義盛は源範頼を総大将とした平家追討軍の軍奉行として九州平定に従軍。
翌年の1月には豊後の
・芦屋浦の戦い
・壇ノ浦の戦い
に加わり、得意の弓で活躍しています。
平家滅亡に大きな武功を挙げた源義経はのちに頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼りましたが、1189年に藤原泰衡によって討伐されました。
その際、梶原景時と共に義経の首実検を行ったのが和田義盛でした。
義盛はその後頼朝による奥州藤原氏討伐で先陣を切る活躍を見せ、奥州藤原氏は滅亡しています。
鎌倉幕府の宿老・和田義盛
1190年、義盛は頼朝の上洛で先陣を務め、頼朝によるトップ御家人10人のうちの1人にも推挙されました。
1199年、源頼朝の死後、まだ若い源頼家が第2代将軍となると、重臣13名による合議制が行われるようになり、義盛はその宿老メンバーの1人になっています。
義盛は、
・1203年 比企能員の変では北条時政に荷担して比企氏を討伐
・1205年 北条時政の策謀による畠山重忠の乱では、義盛が北条軍の大将として出陣する
などめざましく活躍しました。
第2代将軍源頼家の後ろ楯だった比企氏が滅亡した後、頼家は幽閉・暗殺されます。
源実朝を第3代将軍に擁立した北条時政が執権として権力を持ち始めますが、その後も義盛は一貫して北条氏に貢献しています。
和田合戦と死
幕府内における和田義盛を中心とする和田氏はますます力をつけていきました。
しかし、息子の北条義時と対立した時政が失脚します。
そして義時が2代執権に就任し、北条政子と共に実権を握るようになると和田氏を脅威とみなし始めます。
1213年、和田義盛は義時の和田一族に対する挑発に乗った形でついに挙兵。
これが和田合戦です。
しかし、義盛は同族の三浦義村に裏切られて敗北し、鎌倉・由比ヶ浜で最期を遂げました。
この地には今でも和田塚という地名が残っています。
和田合戦とは?
和田義盛が命を落とすことになった和田合戦とはどんな経緯で起きた戦いだったのでしょうか。
1213年5月2日と3日、鎌倉幕府創設の功臣である有力御家人和田氏と、初代将軍源頼朝の死後に大きな権力を持った北条氏との間に起きた戦いのことです。
謀反の発覚
第2代執権・北条義時や北条政子は、鎌倉幕府内における一大勢力となった和田義盛とその一族を危険視するようになりました。
1213年、信濃源氏の血筋である泉親衡が源実朝を将軍から降ろし、源頼家の遺児を擁立しようとするクーデターを企みました。
目的は、将軍実朝の失脚ではなく、背後で権力を握る北条氏の駆逐です。
その計画に
・義盛の子・義重
・義盛の甥・胤長
が加わっていたことが判明しました。
義盛の嘆願により、これまでの功績に免じて息子2人は赦免されましたが、首謀者とされた甥の胤長は罪人扱いで陸奧国への配流となりました。
和田氏はそれを屈辱と感じたのです。
また、胤長の6歳の娘は哀しみのあまり病となって死亡し、和田氏一族に移譲されるはずの胤長の鎌倉の邸は北条義時により没収され、別の御家人へ下げ渡され、さらなる屈辱を被りました。
義時を深く恨んだ義盛は、その挑発に乗る形で挙兵を決意したのです。
三浦義村の裏切りと敗戦
義盛は
・縁戚の横山党
・波多野氏
・本家筋の有力御家人三浦義村
らと共に北条義時に対する決起準備を進めていました。
しかし、起請文まで書いて参加を誓っていた三浦義村が幕府に寝返り、義盛の挙兵を執権義時に知らせたのです。
5月2日、和田義盛は150騎で将軍御所である大倉御所、義時邸、大江広元邸を襲撃。
しかし、義盛を裏切った三浦義村の軍が幕府への加勢に到着すると和田軍は劣勢に。
翌朝、新たな横山党の3000余騎が到着して一時和田軍は勢いを盛り返しますが、加勢する御家人たちの人員が増え続ける幕府軍に対し、和田側の兵は疲弊し数も減っていきました。
ついに息子・義直が討取られると義盛は戦意を喪失。
と泣いて悲嘆にくれているところを彼自身まで討取られてしまったのです。
一連の合戦で目覚ましい活躍をした義盛の三男・朝比奈義秀は京への脱出に成功。
しかし義盛の他の子息たちは次々と討死し、和田一族はほぼ壊滅しました。
合戦後、固瀬川(境川)に晒された和田一族の首級の数は実に234もあったと言われています。
こうして和田氏を消した北条氏は、鎌倉幕府における立場をさらに強固にしていったのです。
和田義盛の墓所
和田合戦の時に悲劇的な最期を遂げた和田義盛とその一族を葬った場所とされています。
1892年に新道の造成で塚の一部を掘った際、和田合戦の時のものだと考えられるおびただしい数の人骨が出土し、碑が建てられました。
塚の上には石碑以外にも多くの五輪塔・仏像・馬頭観音などが並んでいます。
<和田義盛の墓:和田塚 神奈川県鎌倉市由比ガ浜2丁目19−3>
きょうのまとめ
和田義盛とは、
① 源頼朝挙兵以来数多くの戦で活躍した鎌倉幕府の功臣
② 鎌倉幕府における重要御家人として力を得た初代侍所別当
③ 北条義時の挑発で和田合戦を起こし滅亡した和田一族の当主
でした。
主君である将軍に仕えると同時に北条氏にも尽くしながら、力を持ちすぎたことが原因で北条義時に危険視された和田義盛。
最後の合戦で頼みにした身内に裏切られ、さらに愛息を失う悲しみの中で迎えた彼自身の最期でした。
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