三浦義村とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉幕府の有力御家人だった三浦義村みうらよしむら

ここではなかなか強烈な鎌倉御家人・義村のやり方と彼がどんな人物だったのかを見て参りましょう。

 

三浦義村はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:相模国(現在の神奈川県)
  • 生年月日:不詳
  • 死亡年月日:1239年12月5日(享年不明)
  • 相模国を基盤とする鎌倉幕府の有力御家人。北条氏に忠誠を尽くし、評定衆ひょうじょうしゅうにも選ばれ「御成敗式目」の制定に関与した。三浦一族の最盛期を築く
 

三浦義村年表

年表
*生年不詳のため年齢も不詳

西暦

1190年 源頼朝上洛時に右兵衛尉うひょうえのじょうに任官

1200年 梶原景時かじわらかげときの排斥運動で中心的な活動をみせる (梶原景時の変)

1213年 北条義時よしときに対し決起した和田義盛よしもりを裏切り北条氏につく(和田合戦)

1219年 将軍源実朝さねともを暗殺した源頼家よりいえの息子・公暁くぎょうを裏切り殺害する。公暁討伐の功により駿河守するがのかみに任官

1221年 承久の乱。幕府軍として、後鳥羽上皇方だった中心人物近臣だった弟の三浦胤義みうらたねよしらを討つ

1224年 北条義時病死。次代執権を巡る画策で、三浦義村の翻意により失敗した伊賀氏一族が追放される(伊賀氏の変)

1225年 大江広元おおえのひろもと・北条政子死去。評定衆に就任し、北条氏に次ぐ地位を得る

1232年 御成敗式目ごせいばいしきもく発布

1239年 死去

 

三浦義村の生涯

三浦義村は、父親・義澄と共に源平合戦のころから活躍した武将です。

鎌倉幕府に関わる事件や戦いの多くに関わっています。

数々の事件


三浦義村は三浦氏の当主・三浦義澄よしずみの次男です。

兄に三浦友澄ともずみがありましたが、彼が1221年の承久の乱で討死してからは、義村が嫡男としての扱いとなりました。

母親は伊豆の豪族伊東祐親いとうすけちかの娘です。

1180年に源頼朝が石橋山の戦いで挙兵した時には、三浦氏の加勢が頼みとされていましたが、悪天候のため義澄と義村らは到着が遅れ、頼朝軍は大庭景親おおばかげちからの平氏軍に敗北しました。

その後、衣笠城合戦で三浦氏は畠山重忠率いる平氏軍に負けています。

しかし、義村は

・一ノ谷の戦い

・壇ノ浦の戦い

・奥州征伐

などに父親と出陣し戦功を挙げて頼朝に尽くし、鎌倉幕府が設立後は御家人として父親の義澄と共に幕府に仕えました。

頼朝の死後、源頼家が第2代将軍となり、幕府の宿老13名による合議制が開始されると、義澄はそのメンバーの1人となっています。

義村は様々な事件や戦いに関わっていきます。

1200年 「梶原景時の変」

 →義村は景時を弾劾し幕府から追放するのに荷担。直後に義澄が74歳にて病没。義村が家督相続

1205年 畠山重忠はたけやましげただの乱」

 →北条時政の陰謀によるもの。義村は時政の命で重忠の嫡男・重保しげやすを討伐。乱後、無実の重忠を陥れた稲毛重成いなげしげなり榛谷重朝はんがやしげともらを誅殺

1213年 「和田合戦」

 →2代目執権・北条義時に対する和田氏による謀反発覚から合戦へと発展。義村は従兄弟の和田義盛や親族として和田氏に加勢する三浦一族を裏切り、和田氏は滅亡

1218年 義村は侍所所司さむらいどころしょしとなる

1219年 源頼家の子・公暁は叔父の第3代将軍・源実朝を暗殺した後、乳母の夫である義村を頼るが、義村の裏切りで公暁は殺害される。

 →公暁討伐の功で義村は駿河守に任官

こうして三浦義村は彼を頼りにする者、有力者たちを裏切りながら、北条氏にひたすら仕え、出世していったのでした。

兄弟や後見も斬って捨てるさらなる裏切り?

1221年の承久の乱は、日本史上初の朝廷と武家政権との対決です。

鎌倉幕府と執権・北条義時に対する後鳥羽上皇ごとばじょうこうによる朝廷の復権を賭けた争いでした。

実は、三浦義村の弟三浦胤義は上皇の近臣でした。

彼を通じて上皇執権義時の追討の共謀を誘われた三浦義村でしたが、彼は胤義からの使者を追い返し、詳細を義時に告げたのです。

さらに義村は鎌倉幕府の討伐軍の大将として戦い、敵対した上皇方の弟・胤義は最後に自刃しました。

1224年には伊賀氏の変が起きます。

北条義時の病死後、後家となった義村の後妻・伊賀の方が、

北条政村ほうじょうまさむら(実子)を執権

一条実雅いちじょうさねまさ(娘婿)を将軍

にそれぞれ立てようと画策したのです。

三浦義村は、政村の烏帽子親えぼしおや(元服のときに加冠する役目の後見人的立場)だったことから、伊賀氏方につく予定でしたが、それを知った北条政子の説得により翻意。

結局義村は、北条義時の息子である泰時やすときを執権へと推す政子側につき、伊賀氏は追放されてしまいました。

実際のところは伊賀氏による画策などなく、

「将軍や北条氏の代替わりによって自らの影響力が薄れることを懸念した政子が、対抗勢力となりかねない伊賀氏を潰すためにでっちあげたもの」

という説もあります。

幕府の実力者としての義村と死

1225年、大江広元と北条政子という鎌倉幕府の中枢の権力者たちが相次いで亡くなりました。

同年、執権・北条泰時の元に合議制政治をおこなうための評定衆という機関が誕生。

義村は宿老として就任しています。

この時三浦家は、義村は幕府の執権である北条家の次に高い地位となりました。

こうして義村は三浦家の最盛期を築いたのです。

1232年には、執権北条泰時を中心に武家政権のための法令「御成敗式目」が制定されましたが、その際には評定衆として三浦義村も署名しています。

三浦義村は1239年に死没しました。
 

三浦義村の人物像

北条義時には忠実だったものの、幕府の有力御家人たちを次々に裏切りながら生き抜いてきた三浦義村。

梶原景時、比企能員、畠山重忠、和田義盛、公暁、伊賀氏らが滅んだ際には、いつも討伐側についていた義村。

それを同時代の人々がどう思ったでしょうか。

明月記

京の公家で歌人だった藤原定家は明月記めいげつきという日記の中で義村のことを

「八難六奇の謀略、不可思議の者か」

と評しています。

「八難」は張良ちょうりょう、「六奇」は陳平ちんぺいという中国の前漢時代の初代皇帝・劉邦りゅうほうに仕えた軍師たちのことを意味しています。

定家は義村をその2人に匹敵するほどの「権謀術数(相手をたくみにあざむくはかりごと)の人」だと述べたのです。

古今著聞集

やはり京の公家だった橘成季たちばなのなりすえによる編纂の古今著聞集ここんちょもんじゅうという説話集にも義村に関する逸話があります。

将軍御所の侍の間で、上座に座っていた義村のさらに上座に下総国の千葉胤綱ちばたねつなという若い豪族が座った時のこと。

(それを不快に思った)義村「下総の犬めは寝場所を知らぬな」

(それを聞いた)胤綱「三浦の犬は友を食らうぞ」

とつぶやいて切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判したそうです。

義村の実行力とその容赦ないやり方については、当時の京の公家たちにもよく知られていたようです。

 

三浦義村の墓所

三浦半島を本拠地にしていた三浦氏ですが、義村の墓はやはり三浦半島の金田漁港かねだぎょこうの近くにあります。

うっそうとした茂みの中にあるいびつな石を積んで作られているのが三浦義村の墓。

実は、1923年の関東大震災のときに破損してしまった墓石の残った石を積み上げて作られたものです。

これが義村の旧墓とされています。

その近くの階段をのぼると、有志によって立てられた新墓と呼ばれている供養碑もあります。

<三浦義村の墓: 旧墓と新墓 神奈川県三浦市南下浦町2014>

 

きょうのまとめ

三浦義村とは?

① 執権の北条家に次ぐ地位という三浦家の最盛期を築いた人物

② 鎌倉幕府の中枢で活躍した宿老で、数々の事件・戦いに関与し多くの有力者を討伐した人物

③ 権謀術数に長けたと言われる武将

でした。

源頼朝に仕え、北条義時に仕え尽くした三浦義村ですが、別の見方をすれば「友を食らう」本当に油断のならない、また強い武将でもありました。

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku