上野彦馬の名前を知っている人は多くないかもしれません。
でも彼は、あなたも知っている幕末の偉人たちの肖像写真などを多く撮影した人です。
日本初のプロカメラマンといわれる上野彦馬とは、どんな人物だったのでしょうか。
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上野彦馬はどんな人?
- 出身地:長崎銀屋町(現長崎市銀屋町 現古川町?)
- 生年月日:1838年
- 死亡年月日:1904年5月22日(享年67歳)
- 幕末、長崎を中心にして幕末の志士、明治の高官などの肖像写真を撮影した活躍した日本の写真術の開祖で最初のプロカメラマン
上野彦馬年表
西暦(年齢)
1838年(1歳)蘭学者・上野俊之丞の元に誕生
1858年(21歳)医学伝習所にて化学を学び、写真術に興味を持つ
1862年(25歳)化学解説書『舎密局必携』を堀江鍬次郎と共同執筆する
1874年(37歳)日本初の天体写真となる金星の太陽面通過の観測写真を撮影
1877年(40歳)日本初の戦跡写真となる西南戦争の戦跡を撮影。第一回内国勧業博覧会にて鳳紋褒賞受賞
1904年(67歳)長崎にて死去
上野彦馬の生涯
上野彦馬は、写真家として横浜の下岡蓮杖、江戸の鵜飼玉川と並んで、日本写真界の最初期に活躍しました。
誕生から写真との出会い
1838年に長崎で誕生した上野彦馬。
上野家は先祖代々画家の家系でした。
彦馬の父親・上野俊之丞は絵師であり、長崎奉行所の御用時計師であり、そしてシーボルトに学んだ蘭学者でもありました。
俊之丞は国際色豊かな長崎に集まる蘭学者たちと広く交流した人物で、その息子の彦馬は学問を志すには恵まれた家庭環境に育ちました。
さらに俊之丞は日本で初めて写真機材一式を入手したことでも知られています。
ただ、彦馬が写真に興味を持つようになったのは別のきっかけからでした。
彦馬は20歳の頃、オランダ人の医官であるポンペを師として舎密学(化学)を学んでいました。
オランダの書物の中に写真技術に関する記述があったのをきっかけに写真について興味を持ちます。
当時は写真に必要な薬品の入手が難しかったため、自分で作らねばなりませんでしたが、彦馬は熱心に研究を重ね、双眼鏡のレンズを利用した木製の湿板写真のカメラを完成させたのです。
写真術の研究と撮影局の誕生
写真を感光させるためのアルコール、硫酸、アンモニア、青酸カリなどの薬剤調達に苦労しながらも、彦馬はほとんど独学で写真術を完成させます。
彼は、その過程におけるあらゆる化学知識を『舎密局必携』という化学のテキストブックとして蘭書が読めない学生のために出版。
付録で湿板写真術についても紹介しています。
彦馬と同様の写真家で化学者だった堀江鍬次郎との共著となったこの本は、日本全国で化学の教科書として使われるほどの知識が詰まった良書でした。
彦馬は写真術を極める過程で、化学の世界にも大いに貢献したのです。
さらに、写真機の製作や撮影研究のために、長崎の中島川畔に上野撮影局を創設。
坂本龍馬や勝海舟など、当時活躍した志士や幕臣などを撮影して評判となったスタジオは、非常に繁盛しました。
・内田九一や冨重利平らをはじめとする多くの写真家を輩出
・1874年の金星観測で日本初の天体写真を撮影
・1877年の西南戦争で、わが国最初の戦跡を撮影
・同年日本初の内国勧業博覧会では戦跡写真が鳳紋褒賞を受賞
これらを見てもわかるように彦馬の写真は歴史的、文化的に貴重なものであり、彼の活躍には目覚ましいものがありました。
ビジネスとしても大成功を収め、裕福な暮らしを送ることができたようです。
そして、多くの門弟を受け入れて後進の育成に努めました。
彦馬の晩年と死
彦馬の活躍のために非常に裕福な生活ができたようですが、彼の長男、陽一郎は遊蕩が過ぎて彦馬の頭痛の種だったようです。
もともとは相手を思いやる性格で親しまれた彦馬も、息子の問題もあってか、晩年は人を避けてネコばかりを可愛がりました。
一時は猫小屋を作って44匹もの猫を飼っていたそうです。
1904年、彦馬は67歳でその生涯を閉じました。
上野彦馬が取った写真とは
日本における最初期の職業写真家だった上野彦馬は、幕末・明治の頃の志士たちや高級官僚・名士たちの肖像を多く撮影しました。
一体どんな人々が彼の被写体となったのでしょうか。
肖像写真に写った人々
上野撮影局創業当時の1862年は、日本ではまだ「写真を撮ると魂や精気が吸い取られる」などという迷信があったそうです。
そのため当時は長崎在留の外国人が主な客だったとか。
・来日したロシア皇太子 ニコライ二世(のちの皇帝)
・社会福祉活動に尽力したフランス人宣教師 ド・ロ神父
などが彦馬の客となったそうです。
幕末から明治期にかけて撮影局では長崎を訪れた幕臣・志士たちを撮影。
その客には
・幕臣としても明治政府でも活躍した 勝海舟
・若き志士として活躍した 伊藤俊輔(のちの博文)、高杉晋作、坂本龍馬、桂小五郎、中岡慎太郎
などの錚々たるメンバーが見られ、彼らの間で上野撮影局は評判になったようです。
他の肖像写真にも見られる坂本龍馬の写真のあの小道具!
彦馬のスタジオで撮影された中でも特に有名なものに、坂本龍馬の晩年の写真があります。
懐手をした龍馬の右側にある黒い台が写っていますが、これは、写真撮影の際の露出中に身体が動いてしまって写真がブレてしまうことを防ぐものだったことはご存知ですか?
この黒い台は、土佐藩出身の政治家・後藤象二郎や龍馬の同志であり海援隊隊士の渡辺剛八などの写真にも見られます。
のちにこの台は白く塗り直され、黒いまま使われたのが確認できるのは7枚の写真だけなんだそう。
ちなみに現在は研究により、黒い台が登場する坂本龍馬の肖像写真は、上野撮影局において彦馬の弟子の・井上俊三が撮影したものだと考えられています。
彦馬が撮影した肖像写真以外の写真
【天体観測写真】
1874年12月、金星が太陽面を通過する天文現象が起きました。この天体ショーを観測するのに最適な場所は日本でした。
各国から観測隊が来日したとき、天文学者ダビットソン隊長に率いられるアメリカ隊は、彦馬に観測写真の撮影を依頼。
彼は、現在の星取山の山頂で日本初の天体写真撮影に成功しています。
【報道写真】
1877年に起きた日本で最後の内戦・西南戦争の際には、日本政府の要請によって田原坂を中心にして戦地の撮影を行っています。
まさに報道写真の先駆けとなるものですが、現代の報道写真と違い、戦死者の姿は彼の約200枚の写真の中には一枚もありません。
【風景写真】
彦馬は、自宅近くの中島川上流や南山手や小島の丘などの高台から臨む長崎港の様子も撮影しています。
現在、三菱重工業株式会社長崎造船所の史料館では、彼が撮影した美しい長崎港や長崎製鉄所の写真が展示を見ることができます。
彼が生きた時代の風景は、今も4枚綴りのパノラマ写真に姿を留めています。
上野彦馬の墓所
長崎市内にある風頭公園の坂本龍馬像の高台から降りた所に「上野(彦馬)家墓地」があります。
絵師の家系として続いていた上野家ですが、7代目となる上野彦馬の墓碑は、上野家初代の左衛門尉英傳、3代若元、5代若瑞、そして6代目で彦馬の父親である俊之丞と共にあります。
墓地の入り口には、上野撮影局の創業百年祭を記念した長崎市の写真師会による「上野彦馬先生顕彰碑」(1963年建立)も見られます。
<上野(彦馬)家墓地:長崎市伊良林3丁目4番>
きょうのまとめ
簡単なまとめ
上野彦馬とは、
① 幕末の日本に写真技術の研究を通して日本の化学界にも貢献した人物
② 幕末から明治にかけて活躍した志士や高官の肖像写真撮影で知られる日本初の職業写真家
③肖像画以外にも天体観測・報道・風景なども撮影し、歴史や文化を後世に伝えたプロカメラマンの先駆け
でした。
数々の幕末や明治初期の有名人たちが上野彦馬の写真館を訪れ、貴重な肖像写真を残していきました。
現代の私たちが彼らの顔を知ることができるのは、上野彦馬の撮影技術のおかげでもあったわけですね。
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