クラーク博士とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治初頭の時代、札幌農学校の初代教頭を務め、その後の日本に大きな影響を残した

ウィリアム・スミス・クラーク

マサチューセッツ農科大学の新設にも携わった、アメリカ農業教育のパイオニアでもあります。

札幌の羊ヶ丘展望台にある、遠くを指さした銅像でおなじみのあの人です。

このクラーク博士、その生涯を辿ってみると、とにかく濃い!

常に行動的で刺激的な人生を送った人なんですよね。

今回はそんなクラーク博士がどんな人なのか、その生涯について解説していきます。

 

クラーク博士はどんな人?

プロフィール
ウィリアム・スミス・クラーク

ウィリアム・スミス・クラーク
出典:Wikipedia

  • 出身地:アメリカ・マサチューセッツ州アッシュフィールド
  • 生年月日:1826年7月31日
  • 死亡年月日:1886年3月9日(享年59歳)
  • マサチューセッツ農科大学の誘致を実現させたアメリカ農業教育の一人者。札幌農学校の初代教頭も務め、近代日本に続く有識者を多数輩出した。

 

クラーク博士 年表

年表

西暦(年齢)

1826年(1歳)マサチューセッツ州アッシュフィールドにて、医師をしていた父アサートン・クラーク、母ハリエットのあいだに生まれる。

1844年(18歳)アマースト大学に入学。

1848年(22歳)大学卒業後、ウィリストン神学校にて化学教師になる。

1850年(24歳)化学・植物学をさらに学ぶべくドイツ・ゲッティンゲン大学へ留学。

1852年(26歳)ゲッティンゲン大学にて化学の博士号を取得。アマースト大学から要請を受け、教授となる。

1861年(35歳)南北戦争に従軍、大佐まで上り詰める功績を残し、アメリカの奴隷解放に貢献する。

1871年(45歳)マサチューセッツ農科大学の学長に就任。

1876年(50歳)日本政府からの要請を受け、札幌農学校教頭に就任。

1877年(51歳)帰国し、友人のジョン・ボスウェルと共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立する。

1878年(52歳)パートナーのジョン・ボスウェルが横領を繰り返した挙句逃亡。「クラーク・ボスウェル社」は倒産し、出資者から詐欺容疑で訴えられる。

1886年(59歳)晩年は心臓病を患い寝たきりになり、3月9日、59歳で生涯を終える。

 

クラーク博士の生涯

1826年のこと、クラーク博士はアメリカ・マサチューセッツ州アッシュフィールドにて、医師のアサートン・クラーク、その妻ハリエットの息子として誕生します。

幼少から勝気で負けず嫌いだったクラーク博士は、普通に優秀な学者のイメージとはちょっと違い、学問だけでなく、ケンカやスポーツもめっぽう強かったのだとか。

彼は医師の息子として生まれながらも、動物や植物、化学に興味をもち、傾倒していきます。

自身の興味の赴くままに、打ち込むときは寝食忘れて打ち込む。

「少年よ、大志を抱け」

の名言にふさわしく、若いころからこれでもかと自分の意志に正直な人物だったといいます。

学者としてのクラーク博士

クラーク博士は18歳でマサチューセッツ州の名門・アマースト大学に入学し、化学を専攻。

同大学を卒業したあとは、母校のウィリストン神学校で高校教師を2年間務めました。

しかし博士の研究心はそれでは飽き足らず、24歳のころ、ドイツのゲッティンゲン大学に留学を決めます。

そこからさらに2年経ち、無事に博士号を取得した博士は、アマースト大学の教授として鳴り物入りで迎えられることに。

当時、アマースト大学には博士号をもつ教授がおらず、卒業生であるクラーク博士の博士号取得は大学として大変な栄誉だったのです。

アマースト大学では専攻の化学のほか、動物学、植物学も担当する多忙ぶり。

そんななか、ドイツ滞在時に農業の必要性を体感したクラーク博士は農学部まで新設し、さらに新しい分野へと手を伸ばそうとしていました。

もう多忙なんてもんじゃないですよね。

ほんとに根っから行動力の人だったのですね…。

しかし結局、このときの農学部の新設はうまくいかず、

「新しく学校を作らないと農業を教えるのは無理だ」

と、博士は考えるようになります。

これがのちの、マサチューセッツ農科大学の新設につながっていくわけです。

マサチューセッツ農科大学の新設

1861年から、アメリカでは南北戦争が勃発。

クラーク博士も奴隷解放を訴えるリンカーン大統領の意志に共鳴し、これに従軍しました。

そしてこの南北戦争が明けたころから、博士の新たなキャリアがスタートします。

当時のアメリカでは

「州が必要とすれば農科大学の新設を認める」

という法律が新しく作られたばかりでした。

これを受けた博士は州議会議員となって州に訴えかけ、なんとアメリカにまだ2校しかなかった農科大学を、マサチューセッツ州に新設してしまうのです。

こうして博士はマサチューセッツ農科大学の学長に就任。

以降、農業教育に邁進していきます。

札幌農学校の教頭に赴任

1876年のこと、引き続きマサチューセッツ農科大学の学長を務めていたクラーク博士に、またひとつ新たな転機が訪れます。

そう、この年に日本からの要請を受け、新設される札幌農学校の教頭として赴任することになるのです。

きっかけとなったのは、同志社大学の創設者として知られる新島襄にいじまじょう

博士がアマースト大学で教授をしていたころ、新島は同大学に留学しており、博士の受けもつ化学の講義にいたく感銘を受けたといいます。

その縁から明治政府とクラーク博士の仲介役を担い、博士を日本に呼び寄せることに成功したのです。

札幌農学校は明治期に入り、海外諸国に追いつかんとする政府の足掛かりとなる開拓。

アメリカ式の農業を取り入れ、ここから国を大きく発展させていこうという試みでした。

そこでアメリカ農業教育の一人者であるクラーク博士に白羽の矢が立ったわけですね。

また、当時北海道は南下を企てるロシアの脅威に備える必要もあり、軍事に関しても、南北戦争で大佐まで経験しているクラーク博士の知識を必要としていました。

観光名所となっている札幌の時計台も、もともとは軍事訓練の施設で、クラーク博士の指示で作られたものなんですよ。

農業と軍事というふたつの面で、政府は博士の力を必要としていたわけです。

札幌農学校でのクラーク博士

札幌農学校の創設に携わるべく、マサチューセッツ農科大学に休暇を申し出たクラーク博士は、1年という期限付きで日本にやってきました。

実際に教鞭を執った期間は約8か月ほどだったといいますが、博士が生徒たちに与えた影響は計り知れません。

まず旧来の日本の教育方針は、厳しい規則をいくつも作り、それを生徒に守らせるというものでした。

しかしクラーク博士はそういった規則は一切いらないといい、ただ

クラーク博士
Be, gentleman

(紳士であれ)

という言葉を生徒に与えただけです。

規則を強制するのではなく、何が正しいのか、自分の頭で考えて行動させる。

紳士の心をもって考えれば、決して間違った行為をすることはないと博士は示したのです。

生徒たちとの距離も非常に近く、寒そうにしている生徒を見かけた際は、雪の上で取っ組み合いをはじめ

「これで暖かくなっただろう」

とおどけてみせた逸話も。

そんなクラーク博士にすぐさま心を開いた生徒たちは、農業や軍事に加え、日本では長らく廃止されていたキリスト教についても深く学ぶことになります。

内村鑑三など、影響力のあるキリスト教思想家も教え子から生まれていますね。

帰国後の悲惨すぎる晩年

8か月の赴任期間を終えた1877年4月16日のこと、クラーク博士はアメリカへの帰路に着くべく、北広島市島松の駅舎へとやってきます。

このとき農学校からは30kmも距離があるに関わらず、別れを惜しんだ生徒たちがこぞって博士を見送りにきました。

ここで博士がその生徒たちに残した言葉が

クラーク博士
Boys, be ambitious

(少年よ、大志を抱け)

です。

この言葉を胸に、生徒たちは次代の日本を支える存在として、それぞれ大きく羽ばたいていきます。

そんな有識者たちの背中を押した言葉として、今でもこの一言が語り継がれているのです。

ただ、クラーク博士の晩年は、この功績に反して悲惨なものとなってしまいました。

帰国してからの博士は、続いて「洋上大学を新設したい」という目標を掲げます。

その資金集めのために友人のジョン・ボスウェルと共同で、鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立。

しかしなんと、このときのパートナーが横領を繰り返した挙句に逃亡をはかり、会社は1年で倒産してしまうのです。

しかもクラーク博士は会社設立に協力した出資者から、詐欺罪で訴えられることに。

こうして裁判に身を投じる日々のなかで、博士は心臓病を患い、1886年3月6日、その生涯に幕を下ろすことになるのです。

最期が報われなさすぎる…。

クラーク博士自身、自分の人生で一番輝いていた時期は日本にいたころだったと話していたといいます。

 

旧武士の心を開いたクラーク博士の教育とは?

生涯に関してはざっとここまでですが、せっかくなので日本においてクラーク博士がどんな教育をしたのか、もう少し掘り下げて見ておきましょう。

博士が農学校の教頭に赴任した当時の日本といえば、戊辰戦争が明けたばかりのころ。

もとは幕府の武士だった生徒もたくさんいます。

武士からしてみれば、農業は身分の低い農民のすること

労働をしてお金を稼ぐという行動も彼らにとっては卑しいことという認識でした。

クラーク博士は、そんな旧武士たちに働いてお金を稼ぐことの意義を、実際の体験を通して伝えていきます。

教育の一環であっても、生徒たちが少しでも労働をすれば必ず報酬を出す。

博士は1時間働けば5銭の報酬を出したといい、これには現代でいう時給2,000円近い価値があります。

勉強しながらこの額がもらえるなら、労働に良いイメージをもっていない旧武士たちも悪い気はしませんよね。

農学校の学生の生活は、朝から講義を受け、午後からは農作業、夜は講義で学んだことを自習でまとめるというハードスケジュール。

そんな多忙な日々において、クラーク博士はしっかりとした額の報酬を払い、学生たちのモチベーションを保ちつつ、旧武士たちの労働に対する観念も徐々に変えていったのです。

 

きょうのまとめ

ときには大学一の天才学者として、ときには農業教育の第一人者として、そしてときに日本に西洋の知識を伝えるお雇い外国人として。

自身の情熱の赴くままに、生涯を駆け抜けたクラーク博士。

並々ならぬ行動力には、日本の旧武士たちが強く影響されたことも納得させられます。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① クラーク博士は20代にして、当時のアマースト大学教授で唯一博士号を取得していた天才。

② 州議員となって州に訴えかけ、アメリカで2校しかなかった農科大学の新設をマサチューセッツ州に実現させた。

③ 日本では生徒となった旧武士たちの思想に大きく影響を与え、日本の近代社会の担い手を多数輩出する。

北海道には今でも銅像や石碑が飾られ、北広島市のカントリーサインにもなり、愛され続けているクラーク博士。

なにより博士の情熱に満ちた人となりこそが、時代を超えて人々に慕われる根源なのですね。

 

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