戦国の争乱を沈め、天下人となった
豊臣秀吉。
その子孫は、現在にも続いているのでしょうか?
学校の教科書には出てこない内容ですが、気になる事柄だと思います。
今回は、秀吉の末裔について書いてみたいと思います。
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豊臣秀吉の子孫は現在まで続いている?
天下人となった秀吉にとって、後継ぎとなる子供を授かるかどうかは、
第一の関心ごとであったといっても過言ではないでしょう。
しかしながら、正室との間に子供を授かることがなく、子宝には恵まれませんでした。
多数の側室を迎え入れたものの、授かった子供は3人だったといわれています。
それが、生みの母は諸説ある
「秀勝(石松丸)」と茶々(淀君)との間にできた「鶴松」と「秀頼」
です。
しかも、その中で成人したのは秀頼のみで、他の二人は夭逝しているので、
必然的に秀頼の子供がどうなったかを見ていくことになります。
秀頼の子供
秀吉の子供のうち、唯一成人した秀頼もまた、
正室である千姫との間には子宝に恵まれません。
側室との間に2人の子供をもうけています。
それが、「国松」と「奈阿姫」です。
この2人はどのような生涯をたどるのでしょうか……
国松
大坂夏の陣で、雌雄を決する戦いにおいて、
追い詰められた秀頼は淀殿や重臣らと共に自刃します。
子の国松は城外へ落ちのびます。
しかし徳川方の厳しい残党刈りで捕らえられ、8歳にして斬首されてしまうのです。
奈阿姫
秀頼に嫁いだ家康の孫にあたる千姫は、
大坂夏の陣の後、実家に戻っていたのですが幼い奈阿姫の助命を頼み込みます。
何とか処刑を免れた奈阿姫は、
千姫の養女となり、その後8歳という幼さで出家させられます。
婚姻を結ぶことなく、37歳で生涯を閉じるのです。
これは豊臣の血を引くものとして子孫を残されるのを、徳川家が恐れたからでしょう。
ここで、秀吉の血を受け継ぐ子孫は途絶えたことになります。
国松生存説
しかし、処刑されたのは身代わりで、
国松は薩摩に落ち延びたといわれる生存説も存在しています。
薩摩の島津氏に匿われた後、
豊後の国「日出藩」において、
木下延俊の四男として迎え入れられた国松。
最終的に領地を得て、立石領主「木下延由」となった。
その根拠は、延由の位牌に「国松」と刻まれているからというものなのですが、
考えようによっては、どうにでもできる部分ではあるので、
その信憑性はそれほど高いようにも思えません。
この生存説が本当であるのなら、
木下延由の子孫が豊臣の末裔となるのですが、
公然と歴史に記載するには、根拠が薄弱過ぎるのではないでしょうか。
その他の豊臣家の子孫
天下を2分して争われた戦いに敗れた豊臣方の子孫は、
徳川方に徹底的に族滅せられたことが容易に想像できます。
直接的な子孫に関しては、
途絶えてしまったとみるのが史実としては妥当でしょう。
ただ、秀吉の直接的な子孫ではないのですが、
秀吉の姉にあたる「とも(日秀尼)」の孫、
豊臣完子。
数奇な運命を辿りながら、
最終的に九条家に嫁ぎ、67歳まで生きます。
完子は子供にも恵まれ、後に九条家から大正天皇の皇后を輩出し、
昭和天皇を生むことになります。
現代に続く皇室に、戦国武将の血が受け継がれているところに、
わずかにロマンを感じることができるのではないでしょうか。
きょうのまとめ
豊臣秀吉の子孫についてまとめてみると、
次のようになります。
① 秀吉の子で成人したのは秀頼のみ
② 秀頼の子は子孫を残すことなく亡くなっている
③ 秀頼の子「国松」生存説があるが信憑性には疑問
豊臣秀吉については、他にも色々な記事があります。
よろしければどうぞご覧になって下さい。
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