豊臣秀吉とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

豊臣秀吉 とよとみひでよし

 

数多くの戦国武将の中でも、必ず人気の上位にランキングされる

豊臣秀吉

貧しい家の出ながら天下人となり、関白となった戦国出世ナンバーワン武将です。

彼がどんな人物でどんな生涯を送ったのかには興味が湧きますね。

 

豊臣秀吉はどんな人?

プロフィール
豊臣秀吉

豊臣秀吉
出典:Wikipedia

  • 出身地:尾張国(現在の愛知県)
  • 生年月日:1537年2月6日
  • 死亡年月日:1598年8月18日(享年62歳)
  • 貧しい家の生まれから戦国武将となり関白、太政大臣となって豊臣政権を確立した。初めて日本の全国統一を成し遂げた人物

豊臣秀吉 年表

年表

西暦(年齢)

1537年(1歳)尾張国愛知郡にて誕生

1570年(34歳)織田信長に仕官する

1573年(37歳)長浜城の城主となる

1582年(45歳)本能寺の変後、山﨑の戦いで明智光秀を討つ。清洲会議

1583年(47歳)賤ヶ岳の戦い、大坂城築城

1584年(48歳)小牧・長久手の戦い

1585年(49歳)紀州征伐。四国攻め。関白宣下を受ける

1586年(50歳)九州征伐。天皇より豊臣姓を賜る。太政大臣に任官

1587年(51歳)本邸・聚楽第完成

1590年(54歳)小田原征伐。名実ともに天下を統一

1592年(56歳)第1次朝鮮出兵(文禄の役)

1593年(57歳)側室・茶々(淀殿)が秀吉の子・秀頼を出産

1597年(61歳)第2次朝鮮出兵(慶長の役)

1598年(62歳)伏見城にて死没

 

豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉の人生は、財も家系もなかった1人の少年が持ち前の明るさと機知で時代を乗り越え、城主となり、天下を取った物語のような人生でした。

木下藤吉郎から羽柴秀吉へ

秀吉の出自についての正確な史料はありません

一般に尾張国の下層民の家、もしくは足軽の子供として生まれたと言われます。

家出をして針売りなどの行商をし、今川家に仕えたことがあるものの、放浪生活も経験していたようです。

1554年頃からは織田信長の小者として仕えました。

いわゆる信長の冷えた草履を懐に入れて温めておいた逸話もこの頃のこと。

実力主義の信長のもと、戦功や才覚で頭角を現わし、1561年には、浅生長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚。

当時珍しい恋愛結婚でした。

1565年頃には木下藤吉郎秀吉と名乗り、信長の有力武将の一人として第一線で活躍し始めました。

1570年の越前国・朝倉義景討伐では、「金ケ崎の退き口」と呼ばれる戦いで、殿を勤め、窮地に陥った信長と軍の撤退作戦を成功させる武功をあげています。

1570年の姉川の戦い、1573年の小谷城の戦いでも活躍した秀吉。

浅井・朝倉氏の滅亡後にその報償として浅井の領地・北近江三郡を与えられ、長浜城を築城して城主となりました。

その頃には名を羽柴秀吉へと改めています。

信長亡きあと、後継者となった秀吉

近江で旧浅井家臣団や石田三成などを積極的に登用した秀吉は、武力を増強しながら織田信長の天下統一に貢献します。

1582年、中国攻めを推し進める秀吉が、毛利氏の備中高松城を水攻めにしている最中、本能寺の変での信長の訃報が届きました。

すぐに毛利方と和議を成立させた秀吉は、軍を率いて猛スピードで京に戻り(中国大返し)、山﨑の戦いで明智光秀を討ちました。

同年、清洲城で信長の後継者や遺領処分を相談する清洲会議が行われました。

秀吉は信長の嫡男・信忠の子であるわずか3歳の三法師を後継者とすることに成功。

信長の次男・信雄のぶかつを推す織田家宿老・柴田勝家を抑え、三法師の後見人として実質上の信長後継者となりました。

秀吉の天下統一

1583年賤ヶ岳の合戦で、対立していた柴田勝家を破った秀吉。

その後大坂城を築城しました。

難攻不落の城塞は、金をふんだんに使用した豪華絢爛な城となりました。

天下統一に照準を合わせる秀吉は、紀州平定、四国征伐、九州平定、さらに小田原征伐、奥羽仕置(陸奧地方の平定)を実行していきます。

1585年 近衛前久の猶子となって関白宣下を受ける

1586年 正親町天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉となる。太政大臣に就任

1587年 バテレン追放令発布/北野大茶会の実施/聚楽第建設

1588年 刀狩令・海賊停止令発布

太政大臣の地位を得たときには、正親町天皇から豊臣の姓を賜り、豊臣秀吉と名乗りました。

天下も地位も手に入れた秀吉は、法によって国内整備を実施しつつ豊臣政権を確立させたのです。

このころ、側室として淀殿を迎えます。

彼女との間の第一子・鶴松は、数え年3歳で亡くなりましたが、1593年には第二子・秀頼が生まれています。

膨らむ野望と死

天下統一を果たした豊臣秀吉は「唐入り」の野望を抱いて朝鮮出兵を実行。

1592年 文禄の役

1597年 慶長の役

2度の大軍を送り込んだ秀吉。

これらの出兵は明(中国)と李朝(朝鮮)、そして日本に決着をもたらさないまま終息しました。

1598年に京の醍醐寺で花見を楽しんだ後、秀吉は病がちとなります。

いよいよ死期を悟ると、居城にしていた伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、家康に対して秀頼の後見人になることを依頼。

そして同年8月18日に生涯を終えました。

 

人の扱いが上手かった秀吉

秀吉は、部下のコントロールが大変上手かったようです。

彼は、気むずかしい人物の懐にスルリと入り込んでしまうその天性の才能で、「ひとたらし」と呼ばれたといいます。

秀吉のたらし具合

貧しい家の出身だった秀吉は、必要であれば頭を下げ腰を低くすることを厭いませんでした。

のちに秀吉の天才軍師として活躍した竹中半兵衛をスカウトしたときにも、年下の半兵衛の元を何度も訪ね、気乗りしなかった半兵衛を落として味方に引き入れることに成功しました。

金の使い処を知る秀吉

貧しい家の出身だった秀吉は、人を動かすには情だけでなく、時には金も必要だと言うことを自身の体験からよく理解していました。

城の工事を早く進めさせたいときには職人たちに、命を賭けて武功を挙げたまだ無名の兵たちに、ここぞというときにボーナスを振る舞って感激させています。

また、豊臣や羽柴の名を家臣に与えることもありました。

金と名誉をうまく使い分け、秀吉ファンを増やしていったわけです。

家臣を競争させる

石田三成

成り上がり者の秀吉には、昔から自分に仕える譜代の家臣などを持ちません。

石田三成や竹中半兵衛のような優秀な武将を中途採用しながら、若い家臣たちを早く重臣に育て上げる必要がありました。

例えば、仲の悪い小西行長と加藤清正とに肥後国の一国を半分ずつ与えて国を競争させています。

領地の整備も、政務についても争うように努力させることで、個性豊かな武将たちをうまく手なずけていたところはさすがです。

 

豊臣秀吉ゆかりの場所

秀吉が眠る 豊国廟

京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰あみだがみねの山頂にある秀吉の墓です。

標高196メートルの場所にあり、お参りには563段の長い階段を上らねばなりません。

山頂の大きな五輪塔が、秀吉の亡骸が入っている墓。

300年忌である1897年に、阿弥陀ヶ峰麓の太閤担たいこうだいらという広場にあった秀吉の遺体を発掘し、現在の墓に埋葬し直したということです。

<豊国廟:京都府京都市今熊野北日吉町61>

秀吉を祀った神社 豊国神社

豊国神社とよくにじんじゃは豊臣秀吉を祀る神社です。

壮大な神社でしたが、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、徳川幕府が取り壊し、1880年の再建まで長く放置されていました。

宝物館には、豊臣秀吉の「歯」など興味深い品々が展示されています。

<豊国神社:京都府京都市東山区茶屋町530>

 

きょうのまとめ

低い身分から出世を重ね、名前を変えながら天下統一を果たした武将・豊臣秀吉の一生をご紹介しました。

豊臣秀吉とは

① 貧しい生まれながら、織田信長の元で武将としての頭角を現わし、城持ち大名となった

② 信長亡き後、三法師を利用して後見人という形で実質上の後継者となった

③ ライバルの排除に成功した後、全国を統一し、朝鮮まで遠征したが志半ばのまま、後継者・秀頼を徳川家康に託して死没

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku