何度も主君を変えた藤堂高虎。
しかし、徳川家康にも築城技術で取りたてられ出世します。
その後、伊勢津藩の藩主として藤堂家は継承していきます。
今回は藤堂高虎の子孫についてお伝えします。
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藤堂高虎の家系図
本文に登場する人物を中心とした系図です。
藤堂高虎の正室、側室、その子供について
次々と主君を変えた藤堂高虎。
実は非常に妻を大事にした武将としても有名です。
高虎の正室は久芳院です。
丹後国(今の京都府北部)を治めていた一色義直の娘と言われています。
高虎は1581年、久芳院と結婚します。
久芳院とは非常に仲が良かったのですが、子を授かりませんでした。
周囲は高虎に側室を迎えるよう勧めますが、高虎は夫婦仲が良かったためなかなか側室を迎えようとはしません。
後継ぎがいなくなることは絶対に避けなければならないため、久芳院は自ら側室を迎えるように勧めます。
1599年、高虎は恩人であった長連久の二女・まつ(後の松寿院)を側室として迎えます。
まつは、長氏が没落し因幡国、鳥取城主である宮部継潤の側室でした。
しかし、宮部家を追われ大坂で遊女なっていたこを高虎は不憫に思ったのです。
まつとの間に3人の子宝に恵まれました。
藤堂高虎の子孫
藤堂高虎には側室まつをはじめ、その他側室との間に6人の子どもが生まれました。
側室まつとの間に長男の高次、次男の高重、女の子が一人です。
伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎の後継者は長男、高次が引き継ぎます。
高虎は1630年に病で亡くなります。
高次の後を継いだのはその子、高久でした。
高久には子がなかったため末弟の高睦に家督を譲りました。
しかし高睦も実子はなく、家督を支藩の久居藩より、高次の孫にあたる高敏が継ぎました。
高虎の直系子孫が津藩の家督を継いだのは、この5代高敏までとなります。
6代目は高虎の弟・高清の子孫、高治が相続します。
その後も、藤堂一族は家督を継承し続けて幕末を迎えます。
戊辰戦争が始まると当時の19代目当主・藤堂高猷はその緒戦、鳥羽伏見の戦いに「幕府方」で参戦しました。
しかし戦闘が始まるとすぐに新政府側に寝返ります。
真先に寝返り「さすがは高虎の子孫」と言われたようです。
その後も家系は続き、現在の藤堂家は15代目藤堂高正さんです。
また、ボートレーサー藤堂里香さんも高虎の末裔に当たる事で知られています。
きょうのまとめ
藤堂高虎の子孫について見てきました。
簡単にまとめておきましょう。
① 正室久芳院との間には子供は授からなかった
② 側室まつとの間に後継者の高次が生まれる
③ その後、藤堂家にはあまり実子に恵まれず、藤堂高虎の直系は5代高敏までだった
④ 現在も藤堂家は引き継がれている
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