立花宗茂とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

立花たちばな宗茂むねしげは、高橋招運じょううんの嫡男として生まれますが、

大友家の重臣であった立花道雪の熱烈な誘いで立花家へ婿養子に入ります。

嫡男が家を継ぐのが当たり前だった時代に、養子入りすることは稀です。

立花道雪は幼い頃の宗茂に才能を見出したといいますから、どうしても宗茂を迎え入れたかったのでしょう。

それほど才能のある立花宗茂とはどんな人物なのでしょうか。

立花宗茂についてまとめてみました。

 

立花宗茂はどんな人?

プロフィール
立花宗茂 たちばなむねしげ

立花宗茂畫像
出典:Wikipedia

  • 出身地:豊後国(現在の大分県豊後高田市)
  • 生年月日:1567年
  • 死亡年月日:1642年11月25日(享年76歳)
  • 「西に立花宗茂あり」と賞賛される猛将であり、戦上手。

立花宗茂 年表

年表

西暦(年齢)

1567年(1歳)大分県で大友家の家臣、高橋紹運の嫡男として生まれる。(幼名、千熊丸)

1581年(15歳)立花道雪の娘、誾千代と結婚し、立花家を相続する。

1584年(18歳)秋月家との戦で立花城を攻められるが、夜襲で撃退する。

1586年(20歳)岩屋城の戦い。秋月家と島津家に攻められ実父・高橋招運が討ち死。

1587年(21歳)九州攻めの功績により、筑後国柳川13万石の大名となり、柳川城主となる。

1592年(26歳)1597年までの2度に渡る朝鮮出兵で、鬼神の如き活躍をみせ「生一本の勇士」と称えられる。

1600年(34歳)関ヶ原の戦い。大津城攻に参加のため関ヶ原には参加できず、敗戦後は浪人に。

1602年(36歳)妻・立花誾千代が病没。

1603年(37歳)徳川家康の御書院番頭に召し出され、陸奥国棚倉1万石。大名に復帰。

1615年(49歳)大坂夏の陣に参加。将軍徳川秀忠の指揮下で活躍する。

1620年(54歳)旧領、筑後国柳川城主となり10万石を拝領する。

1637年(71歳)島原の乱に参戦。

1642年(76歳)江戸で死去。

 

文武両道で義理堅い「四国無双」と言われた武将

立花宗茂は高橋家の嫡男として生まれます。

そして立花道雪に望まれて立花家へ養子入りします。

道雪は幼い宗茂に才気を見出し、剣術の稽古をつけたり、当主の器を説いたりと英才教育を施しました。

最初から養子に貰う気満々だったのでしょうね。

実際、誰からも慕われ「武士のなかの武士」と言われる武将に成長したのですから、

道雪の人を見る目は確かだったということでしょう。

宗茂は佐々成政さっさなりまさの応援として駆けつけた戦で、

1日で13回の戦闘に勝利、敵側の7つの砦を落とし、600余の敵兵を打つという信じられない活躍を見せました。

「四国無双」の名に恥じない活躍ぶりですね。

 

立花宗茂にまつわるエピソードや伝説

立花宗茂にまつわるエピソードや伝説をいくつかご紹介します。

完璧人間だった?

名将言行録では宗茂は、次のように賞賛されています。

人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。

奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。

故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり。

常に温厚で人に対して誠実だった宗茂は、戦上手なだけでなく茶道や蹴鞠、狂言など、文化面の教養も高い武将でした。

まさに文武両道、文句の付け所のない完璧な人物ですね。

お坊ちゃま育ち

文武両道で完璧な宗茂ですが、そこはやはり良家のお坊ちゃまです。

お坊ちゃま育ちらしいエピソードをご紹介します。

関ヶ原の戦いに敗れて、浪人となっていた頃のことです。

家臣が大根を入れた雑炊を出したところ、

汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな

と怒ったそうです。

お坊ちゃま育ちだった宗茂は、「雑炊」というものを知らなかったのです。

また家臣が残ったご飯を干して、干飯にするために干したまま出掛けると雨が降り出しました。

宗茂は留守番をしていましたが、干飯を知らないためそのまま放置し干飯は雨に濡れていました。

大名ですから知らなくて当然と言えば当然ですが、人間らしいちょっとお茶目なエピソードです。

父の仇より義を重んじる

関ヶ原の戦いで勝敗が決した後、宗茂は自領の柳川への帰路についていました。

そこで実父・高橋招運の仇である島津義弘の軍と一緒になります。

島津軍は関ヶ原からの撤退で、ほとんどの兵を失っていました。

「今こそ父君の仇を取るべきだ」

と進言する家臣に対して宗茂は、

「敗軍を討つは武家の誉れにあらず、今は同志である。」

と一喝します。

島津義弘に対しては、

「昔の遺恨は、少しも心にかけていない。」

と言い、島津軍の護衛を申し出、お互い無事に自領へと辿り着きます。

感服した義弘は宗茂と友好を結び、柳川篭城の際には援軍を送っています。

父の仇を護衛する、なかなか出来ることではありません。

宗茂が人徳者だったというのは本当のようですね。

 

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きょうのまとめ

立花宗茂についてのまとめ、いかがでしたか?

立花宗茂とは?

① 文武両道で義理堅い「四国無双」と言われた武将

② 完璧人間

③ お坊ちゃま育ち

④ 父の仇より義を重んじる

こんな完璧な人が居たら会ってみたいですよね。

その他の記事についても立花宗茂にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。
 
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