北条時頼と道元~すれ違った価値観~

 

鎌倉幕府第5代執権である北条時頼

時頼は、禅宗に強い信仰がありました。

信仰の強さから鎌倉に禅の僧侶を呼び寄せたいと願います。

時頼が最初に頼み込んだのが道元でした。

道元とはどんな人物なのでしょうか?

 

道元とはどんな人?

道元の誕生と出家

道元は正治2年(1200年)に京都の貴族である久我家(くがけ)に生まれます。

しかし3歳で父親が、8歳で母親を亡くしてしまいます。

14歳の時に道元は比叡山の天台宗(てんだいしゅう)へ出家し、道元と名乗るようになります。

禅宗の道へ入るのは出家して2年後の事でした。

比叡山で修行する道元は、悟りの為に厳しい修行をする事に疑問を持ちます。

教えの中に

「本来本法性・天然自性身(ほんらいほんぽっしょう てんねんじしょうしん)」

があります。

簡単に言うと「人は生まれながらに悟りを得ている」と言う教えです。

道元はこの教え厳しい修行矛盾を感じていました。

そんな道元は日本では新しい禅宗の寺でもある京都の健仁寺(けんにんじ)へ入門しました。

しかし道元の疑問は解決できず、中国大陸のの国へ修行に向かいます。

道元が24歳の時です。

道元宋に渡る

宋に到着した道元は、天童山(てんどうざん)の景徳寺(けいとくじ)で修行を始めます。

5年に及ぶ宋での修行は、修行そのものに疑問を持つ道元を変えました。

年老いた僧侶が自分がする事に意義があるとして、他人に任せず寺での作業をする姿。

見るもの聞くもの全てが仏門の心理だと語る宋の僧侶。

こうした「自然でありのままの姿」が道元の修行に対する疑問を解きほぐしたのです。

それが道元の「心身脱落」と言う悟りになりました。

道元布教活動を始める

宋での修行を終えた道元は禅の僧侶として動き出します。

京都に道元は興聖寺(こうしょうじ)と言うお寺を開きます。

道元は自分の流派である曹洞宗(そうとうしゅう)での教えを広めようとしました。

しかし入門者が増えて大きくなる道元の曹洞衆を、以前からある禅宗の宗派が弾圧を始めます。

弾圧を受けた道元は、武家の波多野義重からの招きもあり北陸へ移ります。

永平寺を開き、義重の保護下で北陸で活動を続けました。

そんな義重から鎌倉で教えを広めて欲しいと頼まれます。

これは北条時頼からの要望でした。

世話になっている義重の頼みということもあり、鎌倉へ向かいます。

 

時頼との出会い

道元の教え

道元は宝治(ほうじ)2年~3年(1248年~49年)の半年間鎌倉に居ました。

鎌倉で道元は執権である時頼と面会します。

道元は48歳。

時頼は21歳。

時頼は道元から教えを受けます。

良い行いをすれば天上へ行き、悪事をすれば地獄へ行く

と言う善悪の因果についての話です。

禅の教えを深く教えたものではありませんでした。

それでも道元の説法に時頼は感心します。

時頼は鎌倉に寺を建てるので鎌倉に居て欲しいとお願いします。

しかし道元は時頼の求めを断り、永平寺へ戻ります。

道元は何故鎌倉から去ったのか?

道元はそれから鎌倉へ行く事はありませんでした。

時頼の願いを受けることは、

武家最大の権力者の保護を受けられるという大きなメリットがあったはずです。

しかし道元はそれを断りました。

道元の弟子が道元の発言などをまとめた「永平広録(えいへいこうろく)」によると

今日、帰山、雲喜ぶ気。山を愛するの愛、初めよりも甚だし

鎌倉から永平寺に戻った道元の心境についてこう書かれています。

「今日帰って来たら雲が喜んで迎えるように見えた。自分の寺があるこの山が鎌倉へ行く前よりもより愛しいと感じた」

と言う意味で鎌倉行きについて道元が言ったとされています。

道元はどうやら鎌倉行きそのものが乗り気ではなかったようです。

 

きょうのまとめ

道元が時頼からの願いを断り、

鎌倉を去った本当の理由は分かりませんが、

幕府に近づき過ぎ、政治に巻き込まれるのを嫌ったのでしょうか。

それとも何か別の理由があったのでしょうか。

いずれにせよ、

道元は自分のありのままを通し鎌倉から去ったと言えるのかもしれません。

 

北条時頼の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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