立花宗茂は関ヶ原の戦いの時なにしてた?

 

本多忠勝と並び賞される立花宗茂(たちばなむねしげ)は、

「 西に宗茂あり 」と言われるほどの猛将です。

それでいて、温厚で誠実な人柄から「 武士のなかの武士 」とも言われました。

そんな宗茂ですから、関ヶ原の戦いではさぞ活躍したことだろうと思いますよね?

ですが関ヶ原で宗茂が活躍した話は聞こえてきません。

立花宗茂は関ヶ原の戦いの時、どこで何をしていたのでしょうか。

気になるので、調べて見ました。

立花宗茂は関ヶ原の戦いの時に何してたのか

立花宗茂は関ヶ原の戦いの時、何をしていたのでしょうか。

一緒に見ていきましょう。

立花宗茂は東軍?西軍?

そもそも立花宗茂は、西軍と東軍のどちらについたのかと言うと、

宗茂は西軍につきました。

徳川家康は宗茂のことを大変買っており、多大な恩賞を約束するから宗茂に東軍につくようにと働きかけました。

家臣達も西軍に勝機はないから東軍についたほうがいいと進言しますが、

宗茂は

秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い。勝ち負けではない

と東軍につくことを拒否しました。

勝ち負けは関係なく恩義に報いるという、なんとも潔い忠義に厚い言葉です。

人格者でもあり、忠義に厚かったという宗茂らしいエピソードですね。

大津城攻め

立花宗茂が関ヶ原の戦いで活躍した話が聞こえてこないと言いましたが当然です。

宗茂は関ヶ原の戦いの時、関ヶ原に居なかったのです。

ではどこで何をしていたのでしょうか。

宗茂は大津城攻めに参加していたのです。

大津城には、西軍だったにもかかわらず東軍に寝返った京極高次(きょうごくたかつぐ)が篭城していました。

大津城は西軍の拠点として重要な場所だったため、急遽大津城に兵を送ることになります。

宗茂は、毛利元康や小早川秀包(ひでかね)らと共に大津城へ向かいました。

この大津城の戦いは1600年9月7日から始まり、9月15日に京極高次が降伏することで終わりを迎えます。

運命のいたずらか、9月15日は関ヶ原の戦いが起こった日です。

そして天下分け目の関ヶ原の戦いは1日という短さで決着がついてしまったため、

宗茂は関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。

宗茂がいたら西軍が勝った?

もし宗茂が関ヶ原の戦いに間に合っていたら、西軍は勝っていたのでしょうか?

西軍の敗戦はさまざまな要因が重なって起こりました。

宗茂が間に合っていたとしても西軍の敗戦は変わらなかったかもしれません。

しかし、宗茂は石高から考えれば1千3百人ほどで良いところ、豊臣家への忠義のために4千人の兵を連れていったと言います。

宗茂の軍は大変勇敢で3千が1万に匹敵するといわれた精鋭部隊ですから、もしかしたら戦況が変わっていたかもしれません。

変わっていなくとも、歴史に名を残す名勝負が生まれていた可能性はあります。

きょうのまとめ

立花宗茂は関ヶ原の戦いの時に何をしていたのか、

ご紹介しましたがいかがでしたか?

もし大津城の戦いが起こらなかったら、関ヶ原の戦いがもう少し長引いていたら、

そんな風に考えずにはいられませんね。










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