飛鳥時代の大政治家、蘇我馬子の墓とは?

 

飛鳥時代の有力豪族であり、権力者だった蘇我馬子

聖徳太子と協力して、当時の日本の政治を担った彼ですが、
現在、どのような場所に埋葬されているのでしょうか。

今回は蘇我馬子のお墓についてご紹介します。

そもそも蘇我馬子とは?

蘇我馬子は飛鳥時代の有力豪族です。

乙巳の変で、中大兄皇子に殺害された
蘇我入鹿の祖父にあたる人物になります。

第30代敏達天皇から第33代推古天皇まで、
4代の天皇に50年以上大臣として仕えました。

特に、推古天皇の時代に摂政の聖徳太子と協力して二頭政治を行ったことで有名です。

仏教推進派で、日本の仏教伝来を主導しました。

天皇の皇子たちに自分の娘を嫁がせ、
天皇の外戚になることで、権力を握りました。

蘇我馬子の死

孫の入鹿(いるか)が中大兄皇子らによって殺害され(乙巳の変)、
その翌日、息子の蝦夷(えみし)が自害に追い込まれたことは有名ですが
馬子の死因は記録が残っておらず、わかっていません。

しかし、かえって記録が残っていないということで、
穏やかに亡くなったということが予想されています。

蘇我馬子の死後に、息子の蝦夷と弟の境部摩理勢(さかいべまりせ)が
対立するようになり、境部摩理勢が馬子の墓の造営を放棄するという事件が起こりました。

その後、天皇の擁立を巡って、両者は対立を深め、
蝦夷によって、境部摩理勢は討たれることになります。

蘇我馬子のお墓

石舞台古墳(いしぶたいこふん)

現在、蘇我馬子の墓は、はっきりとわかっていませんが、

6世紀から7世紀に造られたことや、
蘇我馬子の庭園だったとされている場所に近いことから

奈良県明日香村にある石舞台古墳が有力視されています。

住所: 〒634-0112 高市郡明日香村島庄254番地
URL: https://www.asuka-park.go.jp/

石舞台古墳は方型墳(ほうけいふん)で、
石の総重量が2300トンもの大きな石室と、
その石室が地表に露出していることが、特徴です。

蘇我馬子に恨みを持つ者に墓を暴かれたことが、
石室が露出している理由ではないかと言われています。

女性に化けた狐が、この古墳の上で舞を舞ったことから、
「石舞台」という名前がついたという、伝説が残っています。

同時代に生きた人はどんなお墓?

聖徳太子

馬子と協力して政治を行った聖徳太子は、
大阪府南河内郡(みなみこうちぐん)にある
叡福寺(えいふくじ)内の叡福寺北古墳に眠っています。

所在地: 大阪府太子町聖和台1-1-24
参考URL: http://www.town.taishi.osaka.jp/kanko_info/taishijikkei/eifukuji.html

生前に、聖徳太子はここをお墓と指定したそうです。

太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と
妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)も
一緒に埋葬されています。

推古天皇

日本初の女性天皇であり、馬子が仕えた推古天皇の墓は、
大阪府南河内郡にある、山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)です。

山田高塚古墳は長方墳(ちょうほうふん)で、
二つ石室があります。

若くして亡くなった息子の竹田皇子が一緒に埋葬されています。

所在地: 大阪府南河内郡太子町山田
参考URL: http://www.town.taishi.osaka.jp/kanko_info/taishijikkei/suikotennoryo.html

物部守屋(もののべのもりや)

蘇我馬子の政敵であり、仏教伝来を巡って対立した物部守屋の墓は
大阪市八尾(やお)市にあります。

所在地: 大阪府八尾市太子堂

馬子の仏教派に対し、神道派だった物部守屋の墓は、
全国有数の神社の玉垣(たまがき)に囲まれています。

玉垣とは、神社に巡らされた垣根のことです。

きょうのまとめ

蘇我馬子の墓を紹介しました。

いかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると

① 蘇我馬子とは飛鳥時代の有力豪族

② 馬子の死に際は穏やかだったと予想されている。

③ 馬子の死後、息子と弟が対立した。

④ 馬子の墓は石舞台古墳が有力視されている。

⑤ 聖徳太子、推古天皇、物部守屋の墓は大阪府にある。

生前は、政治を仕切りつつも陰謀や戦いに明け暮れた
蘇我馬子ですが、死後は安らかに眠っていてくれることを願います。

歴史に想いを馳せつつ、偉人達のお墓参りをするのも楽しいかもしれませんね。

 

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