聖武天皇とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

皇室の宗教といえば、神道というイメージがありますよね。

しかし、かつては天皇であっても出家することがありました。

歴代天皇の中でも、仏教を篤く信仰したことで知られるのが、

奈良時代の聖武天皇

彼は一体、どんな人物だったのでしょうか。

今回は聖武天皇の生涯などについて、簡単に紹介していきます。

 

聖武天皇はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 大和国(現在の奈良県)
  • 生年月日: 701年
  • 死亡年月日: 756年5月2日(享年 56歳)
  • 第45代天皇。仏教を篤く信じ、東大寺の大仏をつくったことなどで知られる。

 

聖武天皇 年表

年表

西暦(年齢)

701年(1歳)大和国に生まれる(首皇子)。

707年(7歳)父・文武天皇が崩御する。元明天皇が即位する。

714年(14歳)皇太子となる。

715年(15歳)元正天皇が即位する。

718年(18歳)阿倍内親王が誕生する。

720年(20歳)藤原不比等が死去。

721年(21歳)元明太上天皇が崩御する。

724年(24歳)即位

727年(27歳)基王誕生、皇太子になる。

728年(28歳)基王死去・金鐘山寺を創建する。

729年(29歳)長屋王の変・光明子の立后・天平に改元する。

737年(37歳)藤原四子が病死する。

738年(38歳)阿倍内親王が皇太子となる。

740年(40歳)藤原広嗣の乱が起こる。恭仁京へ遷都。

741年(41歳)国分寺建立の詔

743年(43歳)墾田永年私財法制定・大仏造立の詔

744年(44歳)難波宮へ遷都する。

745年(45歳)紫香楽宮へ遷都する。平城京に還都。

749年(49歳)譲位

752年(52歳)東大寺で大仏開眼供養が行われる。

756年(56歳)崩御

 

聖武天皇の生涯簡単まとめ

聖武天皇は、文武天皇と藤原宮子の子として誕生しました。

即位前の名は、首皇子(おびとのみこ)といいます。

大きくなるまで祖母と伯母が天皇に

父の文武天皇はわずか7歳の頃に亡くなったため、

聖武天皇がすぐに即位するというわけにはいきませんでした。

そこで聖武天皇が成長するまでの中継ぎとして即位したのが、二人の女性天皇です。

一人目は文武天皇の母・元明天皇、二人目は文武天皇の姉・元正天皇といいます。

つまり聖武天皇からすると、祖母と伯母ですね。

聖武天皇は24歳にして元正天皇から譲位され、皇位に就きました。

母も姉も藤原不比等の子

母の宮子は藤原不比等の娘。

藤原不比等といえば中大兄皇子(※1)と協力して大化の改新を行った、中臣鎌足の次男です。

※1 なかのおおえのおおじ。後の天智天皇のこと。

不比等は政治の実権を握り、娘を文武天皇に嫁がせていました。

さらに不比等はもう一人の娘、光明子(※2)も聖武天皇に嫁がせています。

今となっては理解しがたいのですが、聖武天皇の祖父であり、義理の父であるのが不比等ということになりますね。

※2 こうみょうし。光明皇后のこと。

聖武天皇と光明皇后との間には、二人の子ができました。

一人は阿倍内親王(※3)、もう一人は基王(もといおう)です。

基王は待望の男の子で、藤原氏の力もあり、生まれてすぐに皇太子となりました。

※3 あべのないしんのう。後の孝謙天皇(称徳天皇)のこと。

しかし生後1年も経たずに亡くなってしまいます。

その菩提を弔うために建てられたのが、東大寺の前身・金鐘山寺です。

関連記事 >>>> 「聖武天皇が東大寺をつくった意外なエピソードについて」

遷都と大仏建立

当時、皇室を代表する人物として権力を持っていたのが長屋王(ながやおう)。

長屋王は藤原氏と対立し、長屋王の変が起きます。

藤原氏にとって邪魔者がいなくなると、藤原氏出身の光明子が立后して人臣初の皇后となりました。

これにより藤原氏、特に藤原四子(※4)の権力が強まると思いきや、

流行りの天然痘によって全員がほぼ同時期に病死します。

※4 藤原不比等の子・武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の4兄弟のこと。

さらに藤原広嗣の乱(※5)が起きると、聖武天皇は伊勢国への行幸をきっかけとして平城京を抜け出します。

※5 藤原四子の一人・藤原宇合の子である広嗣が、橘諸兄政権への不満によって起こした乱のこと。

そして現在の京都府木津川市の地(=恭仁京/くにきょう)を訪れると、遷都(せんと)を宣言しました。

ですがそれから4年後、難波宮(なにわのみや)・紫香楽宮(しがらきのみや)と次々と都を遷(うつ)し、結局はもとの平城京に戻ってきます。

なぜこんなに矢継ぎ早に遷都を行ったのかは、古代史最大の謎の一つとなっています。

関連記事 >>>> 「聖武天皇が遷都した順番とその理由とは?」

 

この頃の聖武天皇は、自身が帰依していた仏教によって国を治めようとしていました。

なぜなら上述した通り、社会が相当混乱していたからです。

そこで都が奈良に戻らぬうちに、国分寺建立の詔(※6)や大仏建立の詔(※7)などを発しています。

※6 国ごとに国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)をつくり、国家の平安を祈らせるために出された詔のこと。
※7 盧舎那仏(るしゃなぶつ)の大仏をつくるために出された詔のこと。

関連記事 >>>> 「聖武天皇が大仏を作った理由は自分を責めたからだった!?」

 

やがて篤く仏教を信仰していた聖武天皇は出家し、娘の阿倍内親王に譲位します。

自身は太上天皇という身分になりました。

そして東大寺の大仏開眼供養が行われてから4年後、聖武天皇は亡くなりました。

光明皇后はその死を悲しみ、聖武天皇の遺愛の品を東大寺に奉献。

それらは今でも東大寺正倉院に眠っており、すばらしい天平の文化を伝えています。

関連記事 >>>> 「聖武天皇の時代に栄えた天平文化|東大寺正倉院宝物にまつわるエピソードなど」

 

聖武天皇にまつわるエピソード

それでは聖武天皇にまつわるエピソードを二つ、ご紹介していきます。

母親としばらく会えなかった

聖武天皇は上述の通り、父親を早くに亡くしています。

ですがさらに、母親とは生まれてから37歳になるまで会えませんでした。

なぜなら、藤原不比等の館に幽閉されていたからです。

その理由は、母・宮子は聖武天皇を産んだ際に精神を病んでしまったから、というのが通説となっています。

しかし不比等が政治的な理由により、あえて宮子と聖武天皇を引き離した、という説もあるようです。

理由は何であれ、三十年以上幽閉されるのは嫌すぎますね。

宮内庁に命日を間違えられていた

記事の冒頭で、聖武天皇の命日は5月2日と紹介しました。

これは太陰太陽暦であって、太陽暦になおすと6月8日になるそうです。

明治時代、太陰太陽暦から太陽暦に切り替わりましたが、その際、6月7日と間違って換算してしまったようで……。

これが発覚したのは2012年。

それまでの約140年間、聖武天皇の命日の祭祀(さいし)は1日早く行われていたのだとか。

大きな問題はないようですが、なんだか切ないですね。

 

きょうのまとめ

今回は聖武天皇の生涯についてまとめましたが、いかがでしたでしょうか。

聖武天皇とは?

① 父親を早くに亡くし、自身が大きくなるまで中継ぎとして祖母・伯母が天皇を務めた

② 母親と妃は二人とも藤原不比等の娘。母親は幽閉され、三十代半ばまで再会できなかった

③ 短期間に遷都を繰り返し、奈良・東大寺には大仏をつくった

④ 宮内庁に命日を換算ミスされ、1日間違えられていた

こちらのサイトでは他にも、奈良時代に活躍した人物についてまとめています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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