新選組の数々の戦闘に参加し、スパイ活動や内部粛清にも関与したと言われる、
斎藤一。
激動の時代を生きた無口な剣客は、どんな人物だったのでしょうか。
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斎藤一はどんな人?
- 出身地:江戸
- 生年月日:1844年1月1日
- 死亡年月日:1915年9月28日(享年72歳)
- 新選組での役職:副長助勤、撃剣師範、三番隊組長、槍頭
- 剣の流派:無外流(一刀流、山口一刀流とも)
- 愛刀:摂州住池田鬼神丸国重
- 墓:福島県会津若松市阿弥陀寺
- 新選組トップの剣技を誇り、対外的な戦闘から内部粛清にまで活躍した寡黙で、土方歳三から厚い信頼を寄せられ、西南戦争でも活躍した
斎藤一 年表
西暦(年齢)
1844年(1歳)
山口一として江戸に生まれる
1863年(20歳)
新選組入隊
大坂で力士と乱闘
米屋の押し込み強盗討ち取る
長州間者斬殺
1864年(21歳)
池田屋事件
禁門の変
会津藩主松平容保に近藤勇の非行五ヶ条を提出
1867年(24歳)
新選組を離隊し御陵衛士となる(表向きだけ)
武田観柳斎暗殺
油小路事件、新選組へ帰隊
天満屋事件
1868年(25歳)
戊辰戦争勃発
会津藩降伏の後に投降
1874年(31歳)
高木時尾と再婚(初婚は篠田やそと)
警視庁に採用される
西南戦争
1894年(51歳)
東京高等師範学校付属東京教育博物館の守衛長、撃剣師範となる
1899年(56歳)
東京女子高等師範学校勤務
1909年(66歳)
退職
1915年(72歳)
胃潰瘍にて東京で死没
斎藤一の生涯
斎藤一は謎の多い人物です。
彼の息子、藤田勉に口伝した
「藤田家の歴史」が最も有力な手掛かりと言われています。
若いが、凄腕
明石藩から浪人して旗本鈴木家の家臣となった山口祐助の次男として誕生。
1863年3月10日、芹沢鴨・近藤勇らの壬生浪士組(精忠浪士組とも呼ばれる)結成時に入隊しています。
江戸では、近藤勇の開いていた試衛館道場にも出入りしていました。
何らかの理由で刃傷沙汰を起こし、先に京へ逃げてきていたとも言われる斎藤は、他の仲間とはのちに京で合流したようです。
20歳にしてすぐ副長助勤に抜擢されます。
藤堂平助と共に(諸説あり)新選組最若年の幹部となりました。
・池田屋事件
・天満屋事件
など、対外的な戦闘に多く参加する一方、新選組内部粛清にも関与。
また、1867年3月に新選組参謀・伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱する際、近藤勇の密命を受けてスパイとして伊東と行動を共にしました。
御陵衛士が近藤の暗殺を企んでいることを察知して新選組に知らせたのは、斎藤だと言われ、彼は伊東甲子太郎暗殺後に新選組に復帰しています。
1868年からの戊辰戦争では最前線で戦い続けた斎藤でした。
流山で近藤勇が新政府軍に投降した後、江戸に残った土方歳三らといったん別れ、隊長として会津で新選組を率いました。
西南戦争のヒーロー・藤田五郎として
戊辰戦争の敗戦後は、他の会津藩士らとともに罪に服して謹慎生活を送り、解放後に藤田五郎と改名。
斗南藩士として会津藩の名家篠田やそと結婚し、のち高木時尾と再婚しました。
その後東京に移住し、明治に入ってからは警視庁に勤務。
西南戦争に従軍し、抜刀斬り込みの際、天才的な剣技と指揮力で、薩摩兵を圧倒。
大砲2門を奪取するなど、当時の新聞に報道されるほどの活躍をしました(東京日日新聞)。
警視庁退職後は、東京高等師範学校附属東京教育博物館の守衛長を務め、学生に撃剣を教授。
1915年9月28日、胃潰瘍だった彼は、床の間に座ったまま往生を遂げたそうです。
享年72。
斎藤一の印象的なエピソード
「無敵の剣」
斎藤は流儀は何ですか知りませんが、実にいい腕でした。新選組の中では先ず五本の指に入る人でした
とは新選組屯所のあった八木家の息子、八木為三郎の証言。
沖田総司や永倉新八と並ぶ、新選組最強の剣士でした。
永倉は弟子に
沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣
と語ったそうです。
剣の流派は一刀流とも無外流とも伝えられていますが、近年の研究により、近江出身の都司月旦が江戸時代中期に創始した、無外流の可能性が強くなりました。
斎藤の左利き説がありますが、史実である可能性は低いようです。
新選組隊士・中島登の残した絵図では、右利きの構えになっています。
副長・土方歳三の信頼が厚く、新選組内部での粛清役を多く務め、
・荒木田左馬之助
・武田観柳斎
・谷三十郎
らの暗殺に関与していると言われます。
天満屋事件
1867年12月7日、斎藤は海援隊士らの襲撃から、紀州藩士三浦休太郎の護衛の任を果たしました。
襲撃の予感がしたため、鎖を着込んで酒を飲んでいましたが、酔いが廻り、鎖の手甲が邪魔で、中指にひっかける輪を外そうとしたその時、海援隊士の襲撃を受けたのです。
斎藤が
と言った記録が残っています。
斎藤一の名前
最初の名前は山口一。
「一」の名は、彼の誕生日(1月1日)に由来するともいわれます。
1862年、江戸で刃傷沙汰を起こして京都へ逃亡した彼は、新選組全盛期にかけて斎藤一を名乗りました。
1867年には、山口二郎(次郎とも)と改名。
会津藩に属した戊辰戦争中は一瀬伝八を名乗りました。
斗南藩に移住すると藤田五郎と改名し、1872年の壬申戸籍にはその名が記されています。
なぜか数字が必ず入っている彼の名前。
どんな思いを名前に託したのでしょうか。
寡黙で真面目な男とその肖像写真
生真面目な斎藤は年を取っても彼の下帯、つまりフンドシを自分で洗濯しました。
ぱんぱんと手でシワを伸ばして干し、武士の嗜みだとして息子の嫁にもさせなかったとか。
また、晩年は東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務し、生徒の登下校時は人力車の交通整理などもしたそうです。
そんな人物が、あの新選組トップの剣客だったと、その場の誰が想像したでしょう。
同じ新選組幹部の永倉新八と同様に、戊辰戦争を生き残った斎藤一。
しかし、心に秘めた思いがあったのか、永倉と違って斎藤は新選組時代のことを多くは語りませんでした。
そんな彼の姿をひと目見たいという歴史ファンの願いを叶えるように、近年、斎藤の鮮明な肖像写真が発表されました。
度重なる修羅場をかいくぐってきた男の姿がそこにあります。
きょうのまとめ
斎藤一についていかがでしたでしょうか。
斎藤一とは?
簡単にまとめると
① 副長土方に信頼され「無敵の剣」と称された新選組トップの剣客
② 戊辰戦争を生き残り、西南戦争で活躍した戦い一筋の男
③ 剣の腕に奢らず生真面目に生き、坐ったまま大往生した寡黙なサムライ
と言えるのではないでしょうか。
その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
この夜も、私が無茶苦茶に暴れていると、敵の誰かが、そ奴は何か着てるぞ、斬らずに、突け突け!といっているのが、耳に入ったので、ようし突いて来るなら俺もこうしてやると決心した位のものでした