張良は楚漢戦争で軍師として漢の劉邦に仕え天下を取らせます。
漢軍にはもう一人陳平という軍師がいました。
対する楚軍には項羽を支えた范増がいました。
この3人の軍師はどのように絡んでいたのか、いなかったのか?
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軍師 張良と陳平
張良
張良は野戦の経験は一切なく、劉邦から
「謀(はかりごと)を帷幕(本陣で、作戦を図る所。高等司令部。)の中にめぐらし、千里の外に勝利を決した」
(計画や謀に優れている様。あらゆることを的確に処して物事をうまく運んでいく)
と全幅の信頼を得、三国時代の諸葛亮もあこがれたと言われています。
陳平
陳平は
「項羽の右腕であった范増を謀略によって廃し、楚軍の力を削ぐ」
という功績をを立て、三国時代の魏の曹操からも人材発掘に関する例に引用されています。
張良にまつわる伝説
張良は韓の名門の家に生まれ、祖父も父も宰相を務めていました。
父の張平が死んで20年後、紀元前230年、秦が韓を滅ぼします。
始皇帝暗殺未遂
祖国を滅ぼされた張良は始皇帝への復讐を誓います。
司馬遷の史記に記述がある、始皇帝暗殺事件を2つ紹介します。
「荊軻という刺客が始皇帝に謁見し、
隠し持った毒塗の匕首(刃先を持つ短刀)で目前まで迫りますが、
連れの挙動不審でばれて失敗します。」
この事件は後世まで語り継がれ、日本でも詩吟の題材になっているほどです。
次が張良が仕組んだものです。
「始皇帝巡幸の道で、雇った力士に離れた場所から鉄槌を投げさせ始皇帝の車にぶつける」
というものです。
陸上競技のハンマー投げを想像してみてください。
ただしハンマーの重さは男子用で7kg強で、室伏氏の日本記録が約85メートル弱です。
この鉄槌は30kgあったと言いますからそれ程遠くからは狙えなかったでしょう。
いずれにしても狙いは外れ、副車に当たったそうです。
この事実を見ても張良は自身が戦うより、
戦略・戦術で戦力を動かす方に向いていたと言えるかもしれません。
黄石伝説
張良が始皇帝を暗殺しようとして失敗し、下邳(現在の中華人民共和国江蘇省徐州市)に身を隠していた時、一人の老人と出会います。
老人の無理難題にとことん付き合うと、老人は兵書を与え、
この書を読み10年後には王者の軍師となるだろう
と告げます。さらに
13年後にまた会おう。
済北の穀城の下にある黄色い石が私である。
と言いました。
老人の予言はすべて的中し、張良は穀城の黄石を得てこれを祀ったといいます。
老人は黄石公と呼ばれ、太公望と共に兵法の祖として仰がれます。
この逸話は、張良の激情とは正反対の一面を表しており、また黄石公の人を見る目の確かさを表しているといえます。
これは南画の画題としてよく描かれ、張良黄石公図など日本の狩野派で好まれた構図でもあります。
功績・戦績
それでは、張良、陳平、范増は鴻門の会から楚漢が雌雄を決する垓下の戦い、
その前哨戦、彭城の戦い、榮陽の戦いをどう戦ったのでしょうか?
順番ににみていきましょう。
鴻門の会
項羽は、勝手に関中に入るばかりでなく
秦の首都、咸陽を陥落させた劉邦に怒り、これを撃滅しようとします。
しかし張良の根回しによって、劉邦が項羽に釈明する機会として鴻門の会が設けられます。
さらにそれに伴う宴会の間に、危うく劉邦は殺されかけますが張良の機転により逃れます。
彭城・榮陽の戦い
項羽は鴻門の会の後、本拠地である彭城に帰り反秦戦争の論功行賞を行い、劉邦は巴蜀・漢中の王となります。
劉邦が巴蜀に行く際に、張良は桟道を焼くように進言します。
通行困難にすることで謀反の意思がないことを項羽に示すためでした。
その後、劉邦は漢中を占領し東へ出て彭城をを占拠しますが、項羽の軍に破れ逃亡し、榮陽で包囲されます。
この時陳平の謀略で、元々疑り深い項羽はますます諸将を疑うようになり范増は失脚します。
そして故郷に帰る途中で憤死します。
陳平は、項羽の右腕として楚を支えた最高の頭脳である范増を戦わずして排除したことになります。
張良や陳平の策で辛くも軍勢を立て直した劉邦は、榮陽の北の広武山で対陣します。
しかし食料が切れたのでお互いにその本拠地へと戻ることになります。
ここで張良と陳平は共に、
「韓信、彭越の活躍もあって項羽軍は疲弊しているが、本拠地に戻って回復すれば強さも戻る。今しか勝機はない」と
「撤退する項羽軍の後方を襲う」ように劉邦に進言します。
劉邦もこれを聞き入れ韓信、彭越にも出撃命令を出します。
垓下の戦い
しかし韓信たちはやってこず、固陵で項羽軍に敗れます。
張良は
「韓信たちが来ないのは恩賞の約束をしていないから」
「戦争が終わってしまえば自分たちは用無しだと思っているに違いないから、前もって約束しておくべき」
と進言します。
劉邦は韓信、彭越を王にすることを約束し、両軍を合わせて楚軍を垓下に包囲し、項羽を打ち取りました。
これが垓下の戦いです。
関ヶ原の戦いと比べてみるとその規模の大きさがよくわかります。
・垓下の戦い(紀元前202年)
漢軍(劉邦):40万人(内、韓信軍30万人)
楚軍(項羽):10万人
・関ヶ原の戦い (1600年)
東軍(徳川家康):9万人
西軍(石田三成):9万人
きょうのまとめ
張良の軍師ぶりを陳平や范増を絡めて紹介しました。
いかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
① 張良は正統派の軍師の中の軍師
② 黄石公との出会いが軍師としての張良の原点
③ 部下を信じきった劉邦が天下を取った
と言えるのではないでしょうか。
張良については他にも様々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
張良の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「張良とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」
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