劉備(字 玄徳)は、とても優れた統治者として知られています。
劉備本人も優れた人物でしたが、
諸葛亮(字 孔明)や関羽、張飛などの
とても優秀な家来がいました。
今回は劉備の優秀な部下である、諸葛亮と関羽、張飛について調べたことを紹介します。
また、どうして劉備が優秀な部下に恵まれたのかについても考えてみました。
是非参考にしてください。
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諸葛亮
まずは、劉備からもっとも信頼されていた諸葛亮からみていきましょう。
劉備からの信頼が厚かった諸葛亮
諸葛亮は劉備の軍師です。
劉備から直接自分の軍師になって欲しいと頼まれて、彼の人柄に感動して仕えることに決めました。
諸葛亮は、
※劉禅は劉備の子供
と劉備に頼まれるほど信頼されていた部下です。
劉備から絶大な信頼を置かれていた諸葛亮は、最後まで劉備の優秀な部下として仕えました。
陳寿の評価
「三国志」の著者である陳寿は、
どんな小さいことでも善いことには褒美を与え、悪いことは小さなことでもきちんと罰していた。
周りの人々は、彼のことを恐れつつもとても敬愛していた。
と記述しています。
実際に諸葛亮はとても優秀な政治家としての一面を持っていて、劉備が亡くなった後は、彼の息子である劉禅をしっかり支えていました。
軍師としてはあまり能力が高くなかった…?
劉備のもとで多くの功績を立てて、
現在でも賢人として人気がある諸葛亮ですが、軍師としては少し能力が欠けることもあったようです。
政治家や統治者としてとても諸葛亮のことを評価している陳寿も、
と少々苦言を残しています。
諸葛亮は、奇策にはあまり優れていなかったという記録も残っています。
とても優れた人物でしたが、軍師としてよりも政治家として優れた一面を沢山持っていたようです。
関羽
次は曹操にも認められた男、関羽についてみていきましょう。
関羽は諸葛亮のもとで将軍として武功を立てた人物です。
多くの武勇伝を持っていて、劉備だけではなく敵の武将からも高く評価されていた人物でした。
最後は捕まって処刑されるという悲劇的な最期を遂げます。
敵である曹操も、関羽の才能をとても高く評価していました。
関羽は曹操の捕虜になった時期があります。
曹操はその頃から関羽を高く評価していたため、自分のもとに関羽をひき入れようと、捕虜であるにもかかわらず将軍の位を与えるなど、関羽をとても手厚くもてなしていました。
曹操は是非自分のもとに来て欲しいと関羽に頼みましたが、曹操への恩返しがすんだら劉備のもとに戻るときっぱり話しました。
その後も曹操は関羽に多くの恩賞を与えるなどして自分のもとに関羽を招き入れようとしますが、最後に関羽は手紙で曹操への感謝を伝えて劉備のもとに帰っていきます。
曹操の部下は関羽を追おうとしましたが、曹操は部下たちが関羽を追うのを止めて、関羽の義理堅さを高く評価しました。
張飛
最期は張飛についてみていきましょう。
劉備とは兄弟のような仲
張飛は劉備が挙兵した当初から彼につき従っていた将軍の一人です。
劉備の身辺警護の役も務めているほど、信頼が厚かった部下でした。
と評価されるほど武勇に優れた将軍で、張飛と劉備とは兄弟ような仲だったと記述されています。
忠誠心もとても厚く、劉備が曹操のもとを離れる際にも一緒に従いました。
低い身分の人には横暴だったことが原因で死に至る
張飛にはとても大きな欠点がありました。
それは知識人など身分の高い人には礼儀正しく接しますが、自分よりも身分が低いものには横暴な態度を取るのです。
自分の部下を処罰する際に鞭を使って必要以上に暴力をふるったうえで、自分の側に仕えさせていました。
そんな張飛の態度を劉備玄徳は良いとは思っておらず、よく注意していました。
しかし張飛はどうしても態度を改めることができず、
結局恨みを持っていた自分の部下によって殺害されてしまいます。
きょうのまとめ
劉備の家来についてみてきました。
簡単にまとめると
② 諸葛亮は蜀の行く末をまかされるほど劉備から信頼されていた
③ 関羽は多くの武功を立てた将軍で曹操からも高い評価を受けていた
④ 張飛は劉備の身辺警護をつとめたが、身分が低いものへの態度は横柄だった
彼らが劉備に対して忠実だったのは、劉備の寛大さや素直さ、人を見極める能力が大きく関係していると考えることができます。
才能豊かな部下に出会い、彼らと信頼関係を築くためには自分が人間的に魅力的な人物であることが大切だということが、劉備の部下たちについて調べたことで分かりました。
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