人気の観光地・鎌倉には、今や世界中から観光客が押し寄せています。
かつて鎌倉に幕府があったことはご存じでしょう。
それを滅亡させたのが新田義貞でした。
そんな歴史の大転換点をつくった義貞が、歴史の表舞台で活躍したのはわずか6年ほど。
果たして、新田義貞とはどんな人物だったのでしょうか。
今回は新田義貞の生涯とエピソードについて、簡単にご紹介していきます。
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新田義貞はどんな人?
- 出身地:上野国(現在の群馬県)
- 生年月日:1301年?
- 死亡年月日:1338年8月17日(享年38歳?)
- 鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政でも重用された武将。越前・藤島で不慮の死を遂げた。
新田義貞 年表
西暦(年齢)
1301年(1歳)上野国に生まれる。(通称、小太郎)
1333年(33歳)楠木正成攻めに参加。鎌倉幕府を滅亡させる。
1335年(35歳)箱根竹ノ下の戦いで足利尊氏に敗れる。
1336年(36歳)光厳天皇、新田義貞追討の院宣を足利尊氏に下す。
1338年(38歳)越前・藤島で討死する。
新田義貞の生涯簡単まとめ
新田義貞は上野国で誕生しました。
新田義貞の出自
彼の正しい名前は、源義貞といいます。
というのも、新田氏の祖・義重は「八幡太郎」の名でも知られた、源義家の孫にあたる人物です。
義重が上野の新田庄を本拠として以来、一族は新田姓を名乗るようになりました。
源氏の本流・義家から数えて4代目にあたるのが、鎌倉幕府を開いた源頼朝です。
よって義重は頼朝と同じ源氏一門だったにもかかわらず、幕府内で重用されることはありませんでした。
その後も新田氏は冷遇されたため、新田義貞も鎌倉幕府の一御家人に過ぎなかったのです。
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倒幕の挙兵を決断
義貞の人生が大きく変わったのは、1333年。
その前年に後醍醐天皇が倒幕命令を出し、楠木正成が河内(現在の大阪府東部)で挙兵。
幕府は新田義貞ら御家人に対し、正成の追討を命じます。
義貞は正成が立てこもった、河内金剛山の搦手の攻撃に参加。
しかし正成はこのとき密かに、倒幕の綸旨を受けていたのです。
すると義貞は、仮病を使って新田庄に戻ってしまいます。
倒幕へ挙兵
そんな頃、幕府は正成追討の戦費を調達するため、諸国に有徳銭(富裕な商工業者に対して課された税のこと)の徴収を命じます。
そしてもちろん新田庄にも、二人の徴税使がやって来ました。
しかし、その過酷な徴収に激怒した義貞。
徴税使の一人を斬首し、もう一人も拘留するという行動に出ます。
とはいえ、この行動は幕府に対する反抗と捉えかねません。
そこで幕府による追討を受ける前に、義貞は倒幕の挙兵へと踏み切ったのです。
鎌倉幕府を滅亡させる
1333年5月8日の未明、新田一族の武士たちは生品明神で挙兵。
東山道を西進し、味方を増やしていきます。
そして武蔵に進撃し、翌日には足利尊氏の子・千寿王(のちの室町幕府二代将軍・足利義詮)を擁する足利家の家臣らも合流。
一方その頃尊氏は、京都にある幕府の出先機関・六波羅探題を攻めていました。
新田・足利軍は、幕府にとって重要な防衛線・分倍河原の戦いで幕府軍を撃破。
そして稲村ガ崎を突破して鎌倉に侵攻、22日には北条高時(鎌倉幕府14代執権を務めた人物)らを自刃に追い込みました。
ここに、およそ150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。
建武の新政で重用される
鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇によって、天皇中心の政治「建武の新政」が行われます。
しかし、この政治は何かというと公家贔屓。
当然、武士階級は反発しました。
そこで足利尊氏は、武家政治を再興するために挙兵したのです。
1335年の中先代の乱(北条高時の子・時行の反乱)の討伐を機に、尊氏は反旗を翻しました。
一方、新田義貞はというと、建武の新政において重用されていました。
例えば越後や上野の国司や、武者所頭人(京都の治安維持を司る機関の長官)に任ぜられています。
そのため義貞は、建武政権から離反した足利尊氏と対立することになります。
足利尊氏との対立
箱根の竹ノ下で、新田義貞軍は足利尊氏軍と衝突(竹ノ下の戦い)。
この戦いで義貞は尊氏に敗れます。
しかしその後、京都では楠木正成・北畠顕家らとともに戦い、
一時は尊氏を九州にまで押し込むことに成功します。
しかし尊氏は翌月、義貞追討の院宣を得ました。
尊氏はその後、京都を占領して光明天皇を擁立。
一方、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)へと逃れ、皇位の正統性を主張します。
この朝廷が2つ存在した時代のことを南北朝時代(所在地の位置関係により、京都の朝廷を「北朝」、吉野の朝廷を「南朝」呼びます。)と呼び、全国では内乱が繰り広げられました。
1336年、新田義貞や楠木正成の軍は、摂津(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)の湊川で足利軍を迎え撃ちました(湊川の戦い)。
この戦いによって楠木正成は敗死し、義貞も敗走します。
その後、義貞は恒良親王と尊良親王を奉じて北陸へ。
越前(現在の福井県)を拠点とし、再起を図ることになります。
しかし、こもっていた金ケ崎城が落城。
義貞自身は辛うじて脱出に成功しましたが、尊良親王と嫡男の義顕は自殺に追い込まれています。
金ケ崎落城後、義貞はその東北方にある杣山城を拠点とします。
徐々に勢力を盛り返すと、敵方・斯波高経の黒丸城を包囲。
次々と、近隣の諸城を落としていきました。
そして行われていた藤島の戦いの最中、なんと義貞は不慮の死を遂げたのでした。
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新田義貞にまつわるエピソードや伝説
新田義貞といえば、鎌倉の稲村ケ崎に残る伝説が有名です。
今回はそれ以外のエピソードについて、ご紹介していきます。
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美人妻に現を抜かして絶好のチャンスを棒に振った?
新田義貞や楠木正成らは、足利尊氏を一時は九州にまで追いやりました。
だったらすぐに尊氏を追いかけて、倒してしまえばいいのに……と思いませんか?
『太平記』(南北朝時代の軍記物語のこと)によると、とある女性の存在がこれを阻んだと記されています。
その女性とは、藤原経伊の娘・勾当内侍という女性です。
「勾当内侍」とは本来職名を表すもので、彼女は後醍醐天皇に仕えていた女官でした。
その後、新田義貞の妻となった彼女は、絶世の美女だったと記されています。
そして尊氏追討という絶好のチャンスを逃したのは、義貞がこの美人妻に現を抜かしていたからなんだとか。
何ともアホすぎるエピソードですが、こちらは創作の可能性が高いそうです。
この頃の義貞は瘧病という、マラリア性の熱病に罹っていたという説があります。
相次いだ味方からの裏切り
さて、義貞と尊氏の対立ばかりが目立ちますが、
同じ南朝側として戦った楠木正成も、義貞を良く思っていなかったといわれています。
尊氏が九州に敗走した後、楠木正成は後醍醐天皇に対して和睦を進言。
その内容はというと、人望のない義貞の首を差し出しそうというものでした。
なんと義貞は、味方から売られそうになっていたのです。
結局、正成のこの提案は却下されています。
しかし、またもや義貞に危機が……。
湊川の戦いのあと、足利尊氏は後醍醐天皇と秘密裏に和平工作を進めていました。
そしてその中で、新田氏の切り捨て策が話し合われていたのだとか。
当然この計画は、義貞に一切知らされていませんでした。
『太平記』によると、これを聞きつけた新田一族の一人が後醍醐天皇の鳳輦(天皇が乗る車)に取りすがり、
泣きながら怒りを爆発させたとされています。
またその場に義貞ら3千騎が駆け付け、天皇を取り囲むという騒動に。
結局、後醍醐天皇側が折れ、越前に恒良・尊良親王を推戴するという妥協案が取られたということです。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。新田義貞についていかがでしたでしょうか。
新田義貞とは?
① 鎌倉幕府に冷遇された新田氏に生まれ、幕府の一御家人に過ぎなかった
② 鎌倉幕府を滅亡させ、建武の新政では重用されることになった
③ 建武政権から離反した足利尊氏と対立し、各地で転戦した
④ 越前・藤島の戦いであっけない最期を遂げた
⑤ 『太平記』には美人妻に現を抜かしていたため、戦機を逸したと書かれている
⑥ 味方から裏切られそうになった
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