JR分倍河原駅(東京都府中市)のロータリーには、
新田義貞の像が建っています。
なぜここに? と疑問に思われる方も多いはず。
実は、かつて分倍河原で行われた戦いは、その後の歴史を変える転換点でした。
そこで今回は、分倍河原の戦いについて紹介します。
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分倍河原の戦いとは?
新田義貞は鎌倉幕府を攻めるために上野国(現在の群馬県)で挙兵。
そこから鎌倉に至るまでの間に起こった、新田軍と幕府側との戦いの一つです。
挙兵から14日で鎌倉幕府を滅亡させる
分倍河原の戦いについて説明する前に、
新田義貞の挙兵から鎌倉幕府の滅亡までに起こった出来事を見てみましょう。
1333年5月8日 上野国生品神社で挙兵
1333年5月9日 千寿王(後の足利義詮)、新田軍に合流
1333年5月11日 小手指原の戦いに勝利
1333年5月12日 久米川の戦いに勝利
1333年5月15・16日 分倍河原の戦い勝利
1333年5月21日 鎌倉に侵入
1333年5月22日 鎌倉幕府滅亡
このように、挙兵から幕府を滅亡させるまで2週間。
本当にあっという間だったわけですね。
多摩川は幕府の最後の防衛線だった
上述した戦いは、いずれも幕府の防衛線で行われた戦い。
その中でも特に大きな意味を持っていたのが、分倍河原の戦いでした。
多摩川河畔にある分倍河原は、幕府最後の防衛線といえる重要な地。
ということで分倍河原の戦いは、両者にとって大切な一戦だったわけです。
新田義貞率いる新田軍はおよそ20万。
対して、北条泰家(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の弟にあたる人物)率いる幕府軍はおよそ10万。
はじめ優勢だったのは幕府軍。
新田軍は一時、現在の埼玉県狭山市まで撤退を余儀なくされています。
ですが劣勢だった新田軍に、三浦義勝(大多和義勝ともいわれる人物)率いる6,000の援軍が到着しました。
これにより、新田軍の士気は大いに上がります。
そして油断していた幕府軍に対して攻撃を仕掛け、最終的に新田軍が勝利。
幕府の最後の防衛線・多摩川を越え、一気に鎌倉へと攻め込みました。
きょうのまとめ
今回は新田義貞が鎌倉幕府側と戦った、
分倍河原の戦いについて簡単に紹介しました。
② 分倍河原は鎌倉幕府にとって防衛上重要な場所だった
③ 分倍河原の戦いに勝利した新田軍は勢いに乗り、鎌倉に攻め入った
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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