陸奥宗光とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

外務省内に銅像が建てられるほど、業績を残した陸奥宗光

頭がキレることから、「カミソリ大臣」とも呼ばれていたそうです。

そんな陸奥宗光とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

陸奥宗光はどんな人?

  • 出身地: 紀伊国(現在の和歌山県)
  • 生年月日: 1844年8月20日
  • 死亡年月日: 1897年8月24日(享年 54歳)
  • 明治時代に活躍した外交官・政治家。不平等条約における領事裁判権の廃止などを実現させた。

陸奥宗光 年表

年表

西暦(年齢)

1844年(1歳)紀伊に生まれる。(幼名、牛麿/うしまろ)

1858年(15歳)江戸へ出る。

1863年(20歳)神戸海軍操練所に入る。

1867年(24歳)海援隊に入る。

1868年(25歳)明治政府に出仕する。

1872年(29歳)和歌山へ帰る。

1877年(34歳)山形で投獄される。

1883年(40歳)釈放される。

1884年(41歳)ヨーロッパ留学へ(~1886年)

1888年(45歳)アメリカ・メキシコの公使となる。メキシコと修好通商条約を結ぶ。

1890年(47歳)山県内閣の農商務大臣に就任。

1892年(49歳)第二次伊藤内閣の外務大臣に就任。(~1896年)

1894年(51歳)日英通商航海条約の締結(領事裁判権の廃止)。

1895年(52歳)日清戦争・三国干渉の外交を担当。

1897年(54歳)肺結核のため死去。

陸奥宗光の生涯を簡単に紹介

幕末は龍馬とともに

陸奥宗光は、紀伊藩士の子として生まれました。

国学者でもあった父親の影響を受け、陸奥は尊王攘夷の思想を持っていたといわれています。

江戸へ出た陸奥は、伊藤博文や木戸孝允、坂本龍馬らと知り合います。

そして坂本龍馬と神戸海軍操練所に入り、さらには龍馬率いる海援隊の隊員となりました。

その後明治新政府に出仕し、兵庫県知事や神奈川県知事などを務めます。

ですが薩長を中心とする藩閥政治に憤(いきどお)った陸奥は、和歌山へと戻ってしまいます。

また西南戦争のときには反政府活動に加担したとされ、山形に5年間投獄されるということもありました。

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外交で才能を発揮

釈放された陸奥は伊藤博文の勧めで、ヨーロッパへと留学します。

その後、駐米公使となった陸奥は、メキシコとの間に対等条約を結ぶことに成功します。

第二次伊藤内閣の外務大臣に就任すると、日英通商航海条約に調印します。

その条約の内容には領事裁判権の廃止や関税自主権の一部回復が含まれており、幕末以来の不平等条約の改正は大きく前進しました。

さらに日清戦争終結の際には、全権として下関条約に調印しています。

その結果、日本は三国干渉を受けることになり、その対応にも追われることとなりました。

しかし陸奥は戦争中から体調を崩しており、それが原因で外務大臣を辞任します。

そして大磯やハワイなどで療養生活を送りますが、肺結核のため54歳で亡くなりました。

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陸奥宗光にまつわるエピソード

遊郭通いがバレてクビに

15歳で江戸へ出た陸奥宗光。

儒学者の安井息軒(そっけん)という人物の門下生となります。

しかし、まだ若かった陸奥は放蕩三昧(ほうとうざんまい)。

吉原の遊郭へと通っていることがバレてしまい、破門されてしまいます。

優秀なイメージの強い陸奥宗光ですが、若い頃はやんちゃもしていたのですね。

本当は伊達さんだった

陸奥宗光は「伊達(だて)」という姓から改名していたことをご存知でしょうか。

彼の父の名前は伊達宗広といいます。

陸奥宗光の生まれた家は、伊達政宗で有名な伊達家の支流・紀州伊達氏だそうです。

というわけでもとは「伊達」を名乗っていた陸奥宗光ですが、

海軍操練所に入った頃に「陸奥」姓へと改名したようですよ。

きょうのまとめ

今回は陸奥宗光についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

陸奥宗光とは?

① 若い頃は坂本龍馬らと交流し、海援隊の隊員としても活躍した

② 不平等条約の改正・日清戦争の講和など外交面で活躍した

③ 吉原通いがバレて破門されたことがある

④ 「伊達」姓から「陸奥」姓へと改名した

こちらのサイトでは他にも、陸奥宗光に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

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