陸奥宗光はなぜ条約改正できたのか?領事裁判権と治外法権の違いも説明

 

明治時代、陸奥宗光は不平等条約の改正に成功したといわれています。

それでは、具体的に何を・どのように改正したのでしょうか。

学校で習ったはずですが、忘れてしまった人も多いはず。

そこで今回は陸奥宗光が行った条約改正の経緯などについて、簡単にご紹介していきます。

安政の五カ国条約の問題点とは?

安政五年(1858)、江戸幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと通商条約を結びました。

これらの条約には、以下のような問題がありました。

(1)領事裁判権を認める:外国人が日本で犯罪をした場合、裁判は本国(=外国)の領事によって行うことを認めること。

(2)関税自主権がない

(3)片務的な最恵国待遇を認める

という内容を認めるしかなかった日本側にとって、これらの条約は「 不平等条約 」だったのです。

具体的に不平等条約が原因で被害に遭った事例として、ノルマントン号事件を挙げることができます。

明治19年(1886)、嵐により和歌山沖でイギリス船・ノルマントン号が難破しました。

このとき、イギリス人の船長と乗組員は脱出しましたが、日本人の乗客25名は全員見捨てられ、死亡しています。

救助の義務を果たさなかったことから、当然イギリス人の船長たちは裁判にかけられます。

しかし結果はほとんどが無罪

裁判を担当したのはイギリス人の判事でした。

この事件を受け、日本は治外法権の回復の必要性を痛感しました。
 

領事裁判権と治外法権の違い

さて、「 領事裁判権 」と「 治外法権 」という言葉をさらっと使ってみました。

なかなかややこしいこちらの二つ、違いを説明できますか?

領事裁判権とは上述の通り、外国人の裁判を本国の領事が行うという権利のことです。

一方、治外法権とは、外国人が滞在している国の法律や統治権の支配を受けない特権のことをいいます。

領事裁判権も治外法権のひとつです。

治外法権には他にも、警察権の免除や租税権の免除などが含まれます。

領事裁判権に比べ、治外法権は広い範囲をカバーしているということですね。
 

一筋縄ではいかなかった条約改正

明治新政府は、幕府が結んでしまった不平等条約を改正しようと躍起になります。

例えば岩倉具視を大使として、欧米を歴訪した岩倉使節団

木戸孝允や大久保利通らも参加し、条約改正のための予備交渉を行う目的で派遣されたのですが、結果は失敗。

そこで西洋の制度や文化の視察を行います。

しかし当初の目的を果たせなかった使節団は、批判にさらされることになります。

その後も井上馨が欧化政策を推し進めたり、大隈重信が国別に交渉を進めるなど、

名だたる政治家たちが条約改正の交渉に当たりますが上手くいきませんでした。

大国・イギリスを説得した陸奥宗光

しかし日清戦争海戦の直前、当時外務大臣を務めていた陸奥宗光は、日英通商航海条約を締結します。

この条約には、領事裁判権の廃止関税自主権の一部回復などが盛り込まれていました。

完全な条約改正ではありませんでしたが、大きな一歩でした。

長年、色んな政治家が交渉を行ってきたものの、成果が生まれなかったのですから。

では、なぜ陸奥宗光は条約を改正することができたのでしょうか。

それは陸奥宗光が、世界情勢を冷静に見極めたからだといわれています。

当時、清(しん/現在の中国)に利権を持っていたイギリスでしたが、ロシアの清進出に危機感を募らせていました。

そこでイギリスは日本に協力を持ち掛けますが、陸奥はそこに目を付けたのです。

イギリスへ協力する条件として、陸奥は条約改正を提案。

大国・イギリスとの条約改正を取り付けると、他の国とも同じ内容の条約を結ぶことに次々と成功しました。

今日でも日本は様々な外交問題を抱えています。

もし現代に陸奥宗光がいたら、どのように解決するのだろうと考えて止みません。

きょうのまとめ

今回は、陸奥宗光が行った条約改正についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 領事裁判権は治外法権のひとつ

② 陸奥宗光は世界情勢を見極めて大国・イギリスとの交渉に臨んだ

③ 陸奥は領事裁判権の廃止・関税自主権の一部回復に成功した

こちらのサイトでは他にも、陸奥宗光に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね!










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