毛利元就とはどんな人物だったのでしょうか?
戦略家で、知将とも謀神とも言われ、頭の良い人であったことが伺えます。
現在でも元就の評価は高く、人気の戦国武将です。
元就の人生を見ていけば、知将以外の顔が見えてくるかもしれません。
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毛利元就はどんな人?
- 出身地:安芸(現在の広島県)
- 生年月日:1497年
- 死亡年月日:1571年7月6日(享年75歳)
- 様々な戦略で、一代で中国地方のほぼ全てを手に入れた知将
毛利元就 年表
西暦(年齢)
1497年(1歳)安芸に生まれる。(幼名、松寿丸)
1500年(4歳)父の隠居に伴い多治比猿掛城に移り住む。
1511年(15歳)元服し多治比元就と名乗る。
1516年(20歳)兄・興元が急死したため、甥・幸松丸の後見となる。
1517年(21歳)四国の桶狭間と呼ばれる、有田中井手の戦いで初陣、勝利する。
1523年(27歳)毛利家の家督を相続し、吉田郡山城に入城。
1537年(41歳)長男・隆元を大内氏へ人質として差し出す。
1542年(46歳)第一次月山富田城の戦いで大敗。
1544年(48歳)三男・徳寿丸(後の隆景)を小早川家の養子に出す。
1547年(51歳)次男・元春を吉川家へ養子として送る。
1566年(70歳)第二次月山冨田城の戦いに勝利し中国地方の支配を確立。
1571年(75歳)吉田郡山城にて死去。
弱小領主から中国地方の覇者へ
毛利元就は、元々は弱小領主の次男でした。
本来であれば当主になれるはずのない立場であったにもかかわらず、
兄そして兄の息子を次々に亡くし、毛利家を継ぐことになります。
毛利家は小さな家だったので、長男である隆元まで養子に差し出すなど、積極的に養子縁組をし毛利の家を大きくしていきました。
相手をおとしいれたり、時には非情ともとれる政策も駆使し、
一代で中国地方のほぼ全てを治めることに成功したのです。
毛利元就にまつわるエピソードや伝説
「知」だけじゃない!
知将と言われると、奥にこもって作戦や戦略を考える、そんなイメージがありませんか?
武田元繁が、毛利家と同盟関係にあった吉川家の有田城を攻めたことがきっかけで起こった、
「有田中井手の戦い」は元就の初陣として知られています。
「武田軍5000に対し、毛利・吉川家の連合軍は1200から2000だった(諸説あります)」
と言われています。
毛利家の命運をかけた戦いでした。
圧倒的な戦力差を覆し、武田軍を破ったこの戦いで毛利元就の名は世に広まることになります。
後にこの戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれるようになりました。
さらに陶軍と戦った「厳島の戦い」は、毛利軍4000対し、陶軍20000と言われています。
この戦いにも元就は勝利しています。
元就は記録に残る限りで220以上の戦いに参加しており、勝率は8割と言われています。
このことからも、「知」だけではない元就の猛将ぶりが伺えます。
我、天下を競望せず
元就が死の際で、息子や孫たちに言った言葉だとされています。
誰もが天下をねらうような時代だったにもかかわらず、天下は望まないと断言したのです。
これは、当時の毛利家が天下を狙えるほど一枚岩ではないことを知っていたからとも、天下よりも毛利家の繁栄を望んだからだとも言われています。
本当のことは元就にしか分かりませんが、過ぎた野望を持てば、身を滅ぼすことになる、
という戒めなのかもしれません。
実は筆まめで家族思い
元就はとても筆まめな人物です。
現在も、元就が残した多くの手紙が残っています。
有名な三本の矢のエピソードも、元就が息子たちに当てた手紙が元になっています。
息子たちには、「とにかく兄弟仲良く」と
家族が結束し協力することの大切さを伝えていますし、
孫には「お酒はほどほどに」というような手紙を送っています。
さらに正室であった妙玖への供養を怠らないように、とも伝えています。
実に人間味にあふれた手紙ではないでしょうか。
今で言えば、家族思いのちょっと口うるさいお父さん、と言ったところでしょうか。
元就の人間性が垣間見えますね。
きょうのまとめ
毛利元就について、いかがだったでしょうか。
毛利元就とは?
② 天下よりも毛利家が大事
③ 家族思いで人間味あふれた武将
知将だけではない元就の魅力が伝わりましたか?
その他にも毛利元就にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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