ヴェロネーゼとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

16世紀のイタリアで活躍した画家、

パオロ・ヴェロネーゼ

後期ルネサンスのヴェネツィア派に属する彼は、明るく祝祭的な画面が印象的です。

ヴェロネーゼとは一体、どの様な人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、主な功績やエピソードから見ていきましょう。

 

ヴェロネーゼはどんな人?

プロフィール

自画像
出典:Wikipedia

  • 出身地:イタリア ヴェローナ
  • 生年月日:1528年末頃
  • 死亡年月日:1588年4月19日(享年 60歳頃)
  • ルネサンス後期のヴェネツィア派の画家。

 

ヴェロネーゼ 年表

年表

西暦(年齢)

1528年(0歳)北イタリアのヴェローナに誕生。家業の石工見習いとなる。

1542年(14歳)二流画家の伯父に弟子入りし、絵画の基礎とヴェローナ特有の作風を学ぶ。

1544年(16歳)ヴェネツィアに移住し、ヴェネツィア絵画とマニエリスム絵画の様式に影響を受ける。

1553年(25歳)マントヴァ大聖堂やドゥカーレ宮殿の評議会室の装飾を任される。

1555年(27歳)ヴェネツィアにおける画家としての確固たる地位を獲得。

1560年(32歳)独自の作風を確立する。

1563年(35歳)円熟期の代表作《カナの婚礼》を制作。

1573年(45歳)大作《レヴィ家の饗宴》を制作。

1577年(49歳)ドゥカーレ宮殿を飾る大規模な連作画制作に取り掛かる。《ヴェネツィアの勝利》など。

1588年(60歳)4月19日、熱病により死去。

 

ヴェロネーゼの生涯

ここからは早速ヴェロネーゼの主な功績について、概要をご紹介していきます。

修業時代と先輩たち

1528年の末頃、北イタリアに誕生したヴェロネーゼ。

幼少期から少年時代にかけての彼は、家業である石工として将来父の後を継ぐべく、見習いとして早くから修業を始めていたとされています。

しかし彼は14歳の時、地元ヴェローナで活躍していた画家であり伯父の、アントニオ・バディーレの工房に弟子入りします。

ヴェロネーゼはこの伯父から「絵画の基礎」を学ぶと共に、ヴェローナ絵画の伝統的な作風であった、「人物と建築を統合した画面構成」を受け継いでいます。

その後、16歳で地元を離れヴェネツィアに渡ると、ヴェネツィア派マニエリスムの様式を学び、独自の様式を確立していくこととなりました。

ヴェロネーゼが影響を受けた画家たちを挙げておくと、

ヴェネツィア派
・ティツィアーノ(1488/90頃~1576)

・ティントレット(1519~94)

マニエリスム様式
・ジュリオ・ロマーノ(1499頃~1546)

・パルミジャ二ーノ(1503~40)

といった人物が並びます。

中でもヴェロネーゼはティツィアーノから多くの恩恵を受け、ヴェネツィアで活躍の場を広げることができました。

23歳の時に請け負ったカステルフランコ近郊にある別荘の壁画装飾では、後のヴェロネーゼ独自の様式となる特徴の片鱗をうかがわせています。

画家ヴェロネーゼの特徴


ここで、ヴェロネーゼの作風について見てみましょう。

その最大の特徴と言えるのが、明るい色彩が生む華やかな雰囲気です。

彼はたとえそれが宗教画であってもこの表現方法を貫いています。

他にも、

・豊満な形態

・正確なデッサン

・空間と建築含めた事物の明瞭な配置関係

・登場人物が貴族的

等の特徴を挙げることができます。

ヴェロネーゼの作品の全体を通して感じられる明るい華やかさは、100年以上後に誕生するロココ様式に通じるものがあるのです。

初期作の《信義》や、25歳の時マントヴァ大聖堂のために制作した《聖アントニウスの誘惑》など、若い頃の作品にもその特徴を見ることができます。

20代後半でヴェネツィアで画家としての地位を確固たるものにすると、別荘や修道院などで多くの作品を手がけていきました。

ヴェロネーゼの主な作品には、

雷霆らいていを放つゼウス》(1553年頃) 

→ 17世紀のバロック様式を予感させる錯覚主義(イリュージョニズム)が見られる

《カナの婚礼》(1563年) 

→ 大作の代表作

《クッチーナ家の聖母》(1571年頃) 

→ 円熟期の傑作のひとつ

等があります。

《カナの婚礼》

《カナの婚礼》
出典:Wikipedia

事件から生まれた大作

ヴェロネーゼの作品を語るうえで外せないのが1573年、彼が45歳の時に制作した《レヴィ家の饗宴》です。

《レヴィ家の饗宴》

《レヴィ家の饗宴》
出典:Wikipedia

この作品はもともと、ヴェネツィアのドミニコ会、サンティ・ジョヴァン二・エ・パオロ修道院の食堂のために描かれたものでした。

題材には「最後の晩餐」が選ばれ、キリストや十二使徒と共にヴェロネーゼらしい演出が施された作品となっています。

しかし、当時は対抗宗教改革(プロテスタントの宗教改革に対抗するためのカトリック教会の革新運動)により、再び厳格さが重んじられた時代でした。

この作品に見られる、

・流行りの豪華な衣装をまとう人々

・主題とは直接関係しない世俗的なモチーフがあちこちに配されている

等の特徴は不敬とみなされ、ヴェロネーゼは異端審問所に呼び出されてしまったのです。

これに対し彼は、作品における演出を芸術家の持つ自由であると主張したものの認められず、人物を描き変えることを要求されます。

そこでヴェロネーゼは、この作品を当初の予定であった「最後の晩餐」から《レヴィ家の饗宴》という世俗画として置き換えることで、難を逃れたのでした。

ちなみにレヴィ家は収税人の家系であったため、世俗的なこの作品とも相性が良かったのです。

明るく祝祭的、かつ現実的な特徴を放つヴェロネーゼの作品は、その後ドゥカーレ宮殿などの貴族の館で大規模な連作画の制作に抜擢されることとなりました。

 

「ヴェロネーゼ」という呼び名

ここでは、ヴェロネーゼ及びイタリアの画家の名前にまつわる小話をひとつご紹介します。

ルネサンス後期のヴェネツィア派において重要な功績を遺したヴェロネーゼ。

10代の半ばでヴェネツィアに移住してからは、60歳頃に熱病に罹り没するまでをこの地で過ごしますが、もとは同じく北イタリアに位置するヴェローナ出身です。

ヴェローナと言えば、シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台でおなじみの町です。

ヴェローナとヴェロネーゼ。

彼の生涯や功績をご紹介した本文の冒頭から何度も登場するこの字面に、何かピンッ!ときた方はいるでしょうか。

そうです、彼の名前と思われている「ヴェロネーゼ」は通称であり、その意味は「ヴェローナ人」なのです。

そして彼の本名は、パオロ・カリアーリと言います。

イタリアの芸術家には彼の様に、出身地やあだ名がそのまま有名になって知られている人が多くいます。(ダヴィンチやボッティチェリなど)

この記事の主人公はヴェネツィアで活躍しましたが、ヴェロネーゼという名で親しまれていることで、ヴェローナの人にとっても誇り高い存在となっていることでしょう。

 

きょうのまとめ

今回は16世紀のイタリアで活躍した画家、ヴェロネーゼについてご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、ヴェロネーゼとはどの様な人物だったのか簡単にまとめると

① ルネサンス後期ヴェネツィア派の画家。

② 明るく祝祭的かつ現実的な作風が持ち味。

③ 後のロココ様式やバロック様式に影響を与えた。

ヴェロネーゼの作品は代表作を含め、現存するものが多くあります。

当初は宗教画のつもりで制作していた《レヴィ家の饗宴》など、どのあたりが世俗的で聖書の物語にふさわしくなかったのか探してみるのも、ひとつの鑑賞の仕方として面白いですね。

 

【参考文献】
・ブリタニカオンラインジャパン 大小項目事典「ベロネーゼ」
・水野千依編『西洋の芸術史 造形篇Ⅱ 盛期ルネサンスから十九世紀末まで』藝術学舎/2013
 
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