毛利輝元が用いた家紋の由来とは?

 

「戦国時代最高の謀将」毛利元就を祖父に持ち、中国地方の大大名として君臨した

毛利輝元

秀吉の時代には五大老の一人に選ばれ、絶大な権力を有します。

他の大名家がそうであったように、

輝元も複数の家紋を自家に用いていました。

輝元が用いていた複数の家紋とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

今回は毛利輝元の家紋の由来について詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

毛利輝元の家紋

一文字三つ星

毛利家のシンボルと行っても過言ではないこの家紋は、

戦国大名の家紋の中でとても有名なものの一つです。

別名「 長門三つ星 」とも呼ばれるこの家紋は、元々毛利家の先祖である大江広元(おおえのひろもと)が用い始めたものと考えられています。

三つ星はオリオン座の三つの星である「 オリオンのベルト 」を表しており、将軍の星として武家の間で信仰の対象となっていました。

広元は三つ星に物事のはじめとなる「 一 」の文字を組み合わせてこの家紋を用います。

毛利家もこれにならって「一文字三つ星」を家紋に用いました。

漢字の「一品」にも見えますが、これは広元の先祖である阿保親王(あぼしんのう)が律令制度の最高位、一品(いっぽん)の位であったことが由来となっています。

他にも毛利家は三つ星に自らの本拠地であった安芸国吉田(現在の広島県安芸高田市)の「吉」の文字を三つ星に並べた「三つ星吉文字」を独自の家紋として用いていました。

五七桐

天皇家や足利将軍家の家紋である「五七桐」

永禄8年(1565年)、12歳で元服した輝元に、時の征夷大将軍・足利義輝から「 義 」の字と共に下賜された家紋です。

輝元の祖父・元就は輝元の元服の際に

幸鶴丸(輝元の幼名)が成人となりとてもめでたい。この時を待ち望んでいた

と側室の中の丸へ手紙を送っています。

輝元は天皇家や将軍家の下へ参じる際は、

必ず五七桐の家紋があしらわれた衣装を身につけていたと伝わっています。

長門沢瀉(ながとおもだか)

輝元の祖父・元就が戦場へと向かうために河を渡っていた時、

岸に生えていたオモダカにトンボが止まっているのを見たことがありました。

オモダカは勝ち軍の草トンボは勝ち軍の虫として非常に縁起の良いものであり、この光景を見た元就は幸先が良いと喜び、戦にも見事勝利しました。

この出来事を由来として元就はこのオモダカを家紋として用いるようになったと伝わっています。

輝元の時代、関ヶ原の戦い以降は「一文字三つ星」に替わって使用頻度が増えていくようになり、

輝元は元就の墓参りに行く際は、この家紋があしらわれた衣装を身につけていました。

菊紋

天皇家の家紋である菊紋の使用も毛利家は許されていました。

永禄3年(1560年)、輝元の祖父・元就は、

正親町天皇(おおぎまちてんのう)に莫大な献金を行いました。

この頃の天皇家は金銭的に困窮しており、正親町天皇は即位の礼を元就が献金するまでの3年間行うことができなかったのです。

無事に儀式を終えることができた正親町天皇は元就に官職を与え、天皇家の家紋の使用を許可しました。

それ以降、毛利家は菊紋を用いることができたのです。

 

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

毛利輝元が用いていた家紋は、祖父である元就の時代から用いられているものが多くあります。

輝元も戦国の世を生き延び、この家紋を次代へと伝えたのです。

毛利輝元については他にも様々な記事を書いています。

興味がある方はどうぞご覧になってください。

 

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