毛利輝元の名城・広島城

 

中国地方の雄・毛利家の当主。

毛利輝元

安芸国(現在の広島県)を中心に広大な領地を持っていた輝元は、

数々の名城を所有していましたが、

その中でも彼が築城した広島城は屈指の名城であると言えるでしょう。

今回は名城・広島城について詳しく解説していきます。

どうぞ最後までご覧ください。

 

毛利輝元の名城・広島城

強固な城から栄えた城へ

天正17年(1589年)に輝元は新たな城の築城を始めます。

天下が太平のものとなりつつあったこの時代、

毛利家はこれまで本拠地としていた吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)が手狭になっていました。

吉田郡山城は尼子家との戦いの際、

尼子家の軍勢に取り囲まれながらも、

毛利家が籠城戦を展開して見事撃退した舞台となった城です。

しかし豊臣秀吉が絶大な権力を持って、周辺の大名を次々に屈服させ、

天下はほぼ安定していました。

毛利家のような大大名に求められていたのは「強固な城」

ではなく「栄えた城」でした。

城下町を整備し、政治や産業の中心として成長させる「近世城郭」には毛利家がこれまで本拠地としていた吉田郡山城はあまりにも手狭だったのです。

吉田郡山城は典型的な山城であったため、城下町を作ることや町の整備もかなり難しいものがありました。

天正16年(1588年)、輝元は城の築城を始めます。

秀吉の下を訪れた輝元は壮大な大坂城やその城下町、

秀吉の邸宅であった聚楽第を目の当たりにして自らも新しい城を建てることを決心したと伝わっています。

10年かけて完成した広島城

この城は大坂城の造りを参考としています。

城の設計には秀吉の軍師で築城の名人でもあった黒田官兵衛が関わっていました。

慶長4年(1599年)に工事が全て完了します。

完成した城は当時の大坂城に及ぶ大規模な城だったと伝わっています。

城が完成するにあたり、
石垣や堀の工事を統括する普請奉行(ふしんぶぎょう)だった福島元長は輝元に名刀、阿部藤四郎を献上します

この刀は毛利家に現在まで受け継がれています。

輝元は毛利家の先祖で、鎌倉時代の名将であった大江広元(おおえのひろもと)から「広」の字を、福島元長から「島」の字をとってこの城を「広島城」と名付けました。

「広島」の名前の歴史は輝元から始まったのです。

完成後わずか一年で追放

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発します。

西軍の総大将として徳川家康と敵対した輝元は、領地を大幅に没収されます。

広島城が完成したわずか一年後、

輝元は、広島城から出ていかなければならなくなったのです。

輝元の代わりに広島城の城主となったのは関ヶ原の戦いで東軍に付き、戦場で大活躍した福島正則でした。

 

広島城のその後

広島城は完成してはいたものの、福島正則が入城してからも、城下町や城周辺の完成にはまだまだ至らない部分がありました。

正則は城下町と城周辺の整備を行い、大工事の結果、広島城下はかなりの発展を遂げました。

しかし、この大規模な工事が家康の怒りを買い、慶長14年(1609年)正則は幕府から謹慎処分の命を受けます。

正則はその10年後の元和5年(1619年)にも洪水による城修復を行い、これが幕府に規律違反とされて信濃国(長野県、岐阜県の一部)に追放されます。

以降は浅野家が城主となり、明治時代まで浅野氏の統治が約250年続きました。

太平洋戦争末期になると原子爆弾の投下で城は破壊されてしまいますが、広島市の手により1958年に再建され、現在も広島の名所としてその威容さを保ち続けています。

 

きょうのまとめ

いかがでしたでしょうか。

輝元が広島城の城主であった期間はわずか一年でした。

しかしながら広島城はその後も浅野家広島潘の中心地として重きをなし続けました。

輝元が広島城を建築した功績には計り知れないものがありますね。

毛利輝元については他にも様々な記事を書いています。

興味がある方はどうぞご覧になってください。

 

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