スピノザとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

17世紀オランダ出身の哲学者であり思想家の

バールーフ・デ・スピノザ

デカルトやライプニッツらと並ぶ近世の合理主義哲学者として知られています。

スピノザとは一体どのような人物だったのでしょうか。

今回は、その生涯を功績と共に見ていきましょう。

 

スピノザはどんな人?

プロフィール
スピノザ

スピノザ
出典:Wikipedia

  • 出身地:オランダ アムステルダム
  • 生年月日:1632年11月24日
  • 死亡年月日:1677年2月21日(享年 44歳)
  • 17世紀オランダ出身の哲学者、思想家。主著『エチカ』、『デカルトの哲学原理』

 

スピノザ 年表

年表

西暦(年齢)

1632年(0歳)裕福なユダヤ人貿易商の次男として、アムステルダムに誕生。

1639年(7歳)ユダヤ教団である律法学院に入学。

1649年(17歳)兄が死去し家業を手伝う。

1653年(21歳)前年に開校したイエズス会のラテン語学校で学ぶ。

1654年(22歳)父が死去し、弟と共に家業のデ・スピノザ商会を継ぐ。遺産相続を巡り妹と裁判沙汰になる。ユダヤ法を学ぶ。

1656年(24歳)7月27日、アムステルダムのユダヤ人共同体から破門される。

1658年(26歳)『神、人間、人間の幸福に関する短論文』を執筆。

1660年(28歳)ハーグやライデン郊外のレインスビュルフに移住。レンズ磨きを学び職人となる。

1661年(29歳)この頃から『知性改善論』の執筆を開始するも後に未完となる。『エチカ』の執筆構想を固める。

1663年(31歳)『デカルトの哲学原理』を執筆、出版。デン・ハーフ郊外のフォールビュルフ移住。

1664年(32歳)『デカルトの哲学原理』オランダ語訳出版。

1665年(33歳)『神学・政治論』の執筆開始。

1670年(38歳)デン・ハーグに移住。出版元や著者名を偽り『神学・政治論』を出版。

1673年(41歳)プファルツ選帝侯からハイデルベルク大学教授に推挙されるも辞退。

1675年(43歳)『エチカ』が完成するも出版は断念。出版打診のためアムステルダムに赴く。『政治論』(未完)の執筆。

1677年(45歳)2月21日、肺病で死去。没後に『エチカ』が刊行され、翌年『遺稿集』が発禁される。

 

スピノザの生涯

ここからは早速、スピノザの主な功績についてその生涯から辿っていきます。

「汎神論」

44歳という若さで肺の病に倒れたスピノザ。

しかし、彼の遺した思想は後の哲学者や思想家たちに多大な影響を与え、その研究は今日まで続いています。

スピノザの思想を語るうえで押さえておきたいのがはん神論」という考え。

一言で説明すれば、神=宇宙とでも言いましょうか。

これは「神即自然」とも表されます。

この思想は、まだまだ教会権力の強かった17世紀では受け入れられるものではなく、スピノザは破門されたり著作の禁書措置が採られるなどしています。

一見すると、「神は絶対的な存在である」という考えにおいては教会側とスピノザの意見は一致しているようにも思えます。

しかし彼の考えるそれは、当時では時代の先を行く新たな思想でした。

以下で、教会とスピノザの考える「神」について簡単にまとめてみます。

「神」について

・教会側 → 唯一絶対的な力を持った万物の創造主

・スピノザ → あらゆる世界の営み

教会側の考え方では、神が絶対的な存在である、つまりは主体的な力を持った“有限”の存在ということになります。

一方でスピノザは、あらゆるものを創造したのが神であるならば、それはつまり全てが神であると考えました。

そうすると神は“無限”の存在として考えることができます。

自然の動植物も人間も全てが神の領域の内にあり、神の領域外は存在しない。

イメージでは世界の全てが神に包まれ、染まっているといった感じです。

もう少し現代的な考え方をすれば、スピノザは神を形のある「存在」としてではなく、世界にあるもの全てと捉えていました。

そうなると、スピノザにとっては教会的な考え方の「神による奇跡」は存在しないことになります。

神が起こしたのではなく、神の中の一部に過ぎないからです。

ちなみに、日本にも古来より八百万の神々の思想がありますが、スピノザの思想はこれとも異なります。

あらゆるものの個々にそれぞれの神々が宿っているのではなく、あらゆるものが神の一部ということです。

スピノザのこの“あらゆるものは神という一つの実体から成り立つ”という考え方は、実体一元論として後世の思想家たちに影響を与えていきました。

主な著作

そんな汎神論を軸に展開したスピノザの思想は、『エチカ』という代表的な著作の中に表れています。

しかし禁書処分を避けるために彼の生前には出版されず、死後友人たちの手によってようやく刊行に至りました。

スピノザは他にも、

・キリスト教神学者らから激しい非難を受けて禁書となった『神学・政治論』

・未完に終わった『国家論』

等の政治的著作も遺しています。

しかし実際に時代を先取っていた彼の思想はなかなか世間に受け入れられず、その思想や著作物が見直され改めて研究されることになるのは、彼の死後100年以上が経ってからになるのでした。

 

スピノザにまつわるエピソード

ここでは、スピノザに関するエピソードを2つご紹介していきます。

破門

神について先進的な思想を持っていたスピノザは、20代の頃には既にその基盤ができつつありました。

あらゆる宗教の根本的な思想である超越神を否定する彼のそれは、一族が属していたユダヤ教からも激しく非難されることになります。

ユダヤ人の家系に育った彼は、幼い頃からユダヤ教の教えを授かり指導者となる訓練を受けていました。

しかしその学問的才能はやがて教理からは外れた思想を生み出すことになり、彼は24歳でユダヤ教の共同体から破門され、卒業者名簿からも名前を削除されているのです。

一説によれば、スピノザは狂信的なユダヤ教の信者から命までも狙われたと言います。

しかし結果的に破門され共同体を追われたことで、彼の世界は広がり後世まで影響を遺す思想を世に送り出すことになったのです。

純粋な探求者として

今でこそ偉大な哲学者や思想家の一人として語られるスピノザですが、彼が存命していた当時はその肩書で活動していたわけではありませんでした。

20代後半でレンズ磨きの修業をして職人になると、それを主な生業としてその傍らで思想を探求していたのです。

40代を迎えて大学教授になる道も開けましたが、自由に思想を巡らせることを選び、彼自らがそれを断りました。

そして亡くなるまでの生涯を、質素な生活の中でひたむきに探究に捧げていったのでした。

 

きょうのまとめ

今回は、17世紀オランダの哲学者にして思想家のスピノザについて、その生涯や主な功績をご紹介していきました。

いかがでしたか。

新たな学びはありましたでしょうか。

最後に、スピノザとはどんな人物だったのかを簡単にまとめると

① オランダ出身の哲学者、思想家で思想の根底に「汎神論」を持つ。

② デカルトやライプニッツと並ぶ近世合理主義の哲学者で、代表的な著書に『エチカ』等がある。

③ レンズ磨きの職人を生業とする傍らで、思想の探求を続けていた。

スピノザの遺した著作は、現在では日本語訳もなされています。

彼に興味を持たれた方は、これを機にその思想の痕跡に触れてみてはいかがでしょうか。

特に『エチカ』は、彼の思想の全体に関係している著作のため、入門にもおすすめです。

 
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