源義経と弁慶の主従関係について

 

史料に登場したわずか9年間の間に平家滅亡の立役者となり、その後、きら星の如く短い人生を駆け抜けた牛若丸こと

源義経みなもとのよしつね

その義経に最期まで忠誠を貫いた豪傑がいたことをご存じですか。

彼の名は、武蔵坊弁慶

後世の講談や軍記物などで、数々の剛力無双の伝説を残しているこの弁慶は義経とどのようにして出会い、忠誠を貫くまでに至ったのでしょうか。

今回は義経と弁慶の主従関係について詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

義経と弁慶

乱暴者だった弁慶

弁慶は、

紀伊国(和歌山県、三重県の南部)の出身で熊野神社の統括を務める熊野別当の子として生まれた。

とされていますが、詳しい出自はよくわかっていません。

比叡山で僧として修行することになった弁慶は、まともな修行をせずに、その剛力で乱暴ばかりしていたために比叡山から追い出されてしまいます。

その後、播磨国(兵庫県)に渡った弁慶は比叡山の反省をすることなく暴れまわり、圓教寺えんぎょうじという寺にある塔を燃やしてしまうなどの悪行を行っています。

弁慶はその後京に向かい、千本の刀を集めるという誓いを立てて、道で遭遇した人を襲ったり、武士と決闘を行うなどして999本まで刀を集めます。

義経と弁慶の出会い

残り一本の刀を集めれば、千本。

獲物を探していた弁慶は五条大橋を渡っていると、笛を吹いている若武者と遭遇します。

この若武者が帯びていた見事な刀に目をつけた弁慶は千本目の刀を手に入れるため、若武者に飛びかかります。

しかし、若武者は見事な身のこなしで弁慶を翻弄し、弁慶は敗北してしまいます。

自らを打ち負かした若武者に弁慶は心酔し、家来として付き従うようになりました。

若武者は名を牛若丸といい、後に源義経と名乗り、平家を滅ぼす英雄としてその名を後世に残すことになるのです。

この弁慶と義経の五条大橋の物語は、数多くの講談や軍記物で語られている、最も有名で人気のある逸話です。

 

義経を助けた弁慶

義経は平家を滅ぼし、兄である源頼朝と共に平家打倒の誓いを果たします。

弁慶も義経と共に、平家との様々な戦いに従軍して義経をよく助けました。

しかしその後、義経と頼朝は決別し、義経は頼朝から追われる身となってしまいます。

義経一行は身を隠しながら奥州へ逃亡することを強いられました。

なんとか逃げ延びていましたが、道の途中にある「如意の渡し」という渡し船で、義経一行は正体を見破られそうになってしまいます。

疑いをかけられる中、弁慶は義経を

弁慶
お前が源義経に似ているせいでこのようなことになっているのだぞ

と言って扇で打ち据えます。

弁慶のとっさの機転で危機を乗り越えた一行は、船に乗って川を渡ることができました。

この「如意の渡し」のエピソードがさらに創作されて生まれた「勧進帳」は、歌舞伎の最も有名な演目の1つとなっています。

「勧進帳」では弁慶が義経を杖で打ちつけた後、涙を流して義経に詫びる弁慶の忠節心溢れるエピソードが追加されています。

 

弁慶の壮絶な「立ち往生」

弁慶は義経と共に奥州まで付き従います。

その後、義経は味方であった藤原泰衡ふじわらのやすひらに裏切られて、自らの館である衣川館を敵兵に取り囲まれてしまいます。

弁慶は館の入り口で敵兵を入れないように奮戦していましたが、多勢に無勢。

身体中に矢を受けて立ったまま息絶えるという壮絶な最期を遂げました。

車や電車が故障して、身動きがとれなくなるときに使う「立ち往生」という言葉は、この弁慶の最期が元になっています。

弁慶は義経と五条大橋で出会ってから、その生涯を義経の忠節に尽くしたのです。

 

きょうのまとめ

鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」には、義経が奥州へ逃れる中で共に付き従った人物の中に弁慶の名が、それ以上の弁慶に関しての記録は記されていません。

しかし、弁慶は義経の忠臣として後世に名を残し、怪力無双の豪傑として現代まで語り継がれているのです。

義経と弁慶は、出会いから最期まで、その主従関係を全うしたのです。

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