源義経とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

兄・源頼朝と共に平氏と戦いを繰り広げ、檀ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした

源義経

数々の伝説が現代まで残っている源義経とはどんな人物だったのでしょうか。

年表やエピソードを交えて詳しく解説していきます。

どうぞ最後までお読みください。

 

源義経はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:京(現在の京都市)
  • 生年月日:1159年
  • 死亡年月日:1189年4月30日(享年 31歳)
  • 壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源氏の若武者。戦術の天才

 

源義経 年表

年表
西暦(年齢)

1156年(1歳)京都に生まれる。(幼名、牛若丸)

1165年(7歳)平清盛により出家。鞍馬寺(くらまでら)に入れられる。

1174年(16歳)鞍馬山を出て奥州をめざして流浪の旅。

1175年(17歳)元服(げんぷく)し源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗る。

1180年(22歳)黄瀬川(きせがわ)の宿で頼朝と対面する。

1184年(26歳)宇治川(うじがわ)の戦い。木曽義仲(きそよしなか)を破る。一の谷の戦い。平氏を破る。

1185年(27歳)屋島の戦いで平氏を破る。

1187年(29歳)奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)にくだる。

1189年(31歳)藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に裏切られ衣川館(ころもがわのたち)で自害する。

 

源義経の生涯

平氏を滅ぼす活躍するも、源頼朝と対立し追放された悲劇のヒーロー

源義経は平家に父を殺され、家族と散り散りになり、幼少の頃から鞍馬寺で平家を滅ぼすための修行を続けていました。

やがて元服した義経は黄瀬川で兄・頼朝と感動の対面を果たし、頼朝と共に平家を追い詰め、悲願であった平家滅亡を果たします。

しかし、頼朝はあくまでも義経を家臣の一人として扱い、義経は頼朝の家臣という自覚がなかったため、朝廷から勝手に官位を受けるなどの勝手な行動で頼朝を激怒させてしまい、鎌倉から追放されてしまいます。

そして義経は山伏に身をやつして、逃亡の日々を送ります。

なんとか奥州にたどり着くものの、鎌倉からの再三の圧力に屈した奥州平泉の藤原泰衡に裏切られて、

わずか31歳の短い生涯を終えたのです。

 

源義経にまつわるエピソードや伝説

源義経は平家との戦での神がかった活躍ぶりと、その悲劇的な生涯から後世の人々から根強い人気があり

様々な伝説が現代まで語り継がれています。

実は蝦夷で生き延びていた?

実は義経は衣川館から逃げ延びて、北方でその生涯を終えたという伝説があり

義経は蝦夷でアイヌの人々から神であるオキクルミとして崇められていたことが江戸時代の調査でわかっています。

この北方伝説がさらに発展して、義経が中国や、ロシアに逃げ延びたという伝説や

さらにはモンゴルまで逃げ延び、そこでチンギス・ハーンになったという伝説も存在します。

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師匠を出し抜き、兵法書を手に入れる

義経がまだ牛若丸と名乗っていた時、師匠である鬼一法眼(きいちほうげん)が所有していた兵法書である

六韜(りくとう)三略を読むことが許されず、義経はどうしようかと思案していました。

そして、義経は鬼一法眼の娘に頼み込んで気付かれないように六韜三略を持ってきてもらい、

内容を一言一句全て覚えてしまいました。

戦術の天才。源義経の戦い方

義経は敵の隙を付く戦いを得意とした、優れた戦術家でした。

一ノ谷の戦いでは崖を下って平家の軍に奇襲をかけて大勝利をおさめ

屋島の戦いでは暴風雨の中で、油断していた平家の軍勢の背後に周りこみ、攻めかかって大勝利をおさめます。

義経は軍略においては天才的な采配をみせ、平家滅亡の立役者となったのです。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

源義経について簡単にまとめてみます。

① 平氏を滅ぼす活躍をするも、源頼朝と対立して追放される

② 実は生き延びて、国王や神になった伝説を持つ

③ 師匠をも出し抜く知恵者

④ 敵の隙を付いて勝利をおさめた天才戦術家

その他の記事についても源義経にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。










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