1185年それまで栄華を誇っていた平家を壇ノ浦で滅ぼし、鎌倉幕府を開いた人物といえば
源頼朝です。
頼朝は関東を平定し、1192年には征夷大将軍に任ぜられました。
そんな源頼朝とはどんな人物だったのかみていきましょう。
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源頼朝はどんな人?
- 出身地:尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)
- 生年月日:1147年5月9日
- 死亡年月日:1199年2月9日 享年53歳(満51歳没)
- 鎌倉幕府を開き、武家社会の基礎を築いた人物
源頼朝 年表
西暦(年齢)
1147年(1歳)尾張国熱田に生まれる。(幼名、鬼武者・鬼武丸)
1159年(13歳)右近衛将監・二条天皇の蔵人に補任。同年平治の乱が起き、平氏に敗れ解任
1160年(14歳)伊豆国へ配流
1177年(31歳)北条政子と結婚
1180年(34歳)関東で挙兵、平氏討伐を目的とする
1184年(38歳)弟の源義経が平氏と戦い、京都から追い払う。これに乗じて政所をおく
1185年(39歳)壇ノ浦の戦いで、義経が平氏を滅ぼすが、仲違いをし義経追討する
1189年(43歳)奥州藤原氏を頼った義経を討ち、藤原氏も滅亡させる
1192年(46歳)征夷大将軍に任じられる(一般的にこの年が鎌倉幕府の成立とされている)
1199年(53歳)死去(享年53歳/満51歳没)
一度は平氏に流人とされたが見事に挽回した頼朝
源頼朝は清和源氏の流れを組む源氏の一族で、幼い頃から朝廷の務めをしていました。
しかし平治の乱で、父の義朝が平清盛に破れると父や兄たちは死んでしまうのですが、
頼朝は命を助けられ伊豆へ流されました。
14歳で伊豆へ流され、その間に北条政子と結婚するなど20年もの年月をその地で過ごしています。
34歳で挙兵し関東平定から、平氏、奥州藤原氏と次々に敵を倒していき、やっとのことで征夷大将軍にたどり着いたのです。
伊豆での20年は頼朝をそこまで成長させるにはちょうど良い時間だったのかもしれません。
頼朝が開いた武家社会は江戸時代が終わるまでずっと続いていたのですから。
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源頼朝にまつわるエピソードや伝説
戦いの多かった割に前線にはあまり出ていない
伊豆で挙兵した頼朝は征夷大将軍になるまで、たくさんの戦さをしてきました。
しかしあの平氏を倒した時も、頼朝は関東にいて壇ノ浦の弟・義経にエールを送っていただけでした。
前線には向いていなかったのでしょうか。
唯一出陣した石橋山の戦いでは、父親譲りの勇姿を見せたそうですが、結果は敗退し逃げ出すことになったそうです。
関連記事 >>>> 「源頼朝の弟義経の壇ノ浦での活躍とその後」
恐妻 北条政子
頼朝の奥さん北条政子といえば、誰もが恐妻だと思うでしょう。
頼朝の死後は尼将軍として権勢を振るったほどの人ですからそれは確かです。
武家ともなると、正室以外に愛人を持つのが普通の時代でしたが、北条政子は黙っていません。
愛人の家を破壊させたそうです。
あまりに嫉妬深くて怖いですが、それほど頼朝を愛していたのだと思うことにしましょう。
次々と亡くなる実子たち
頼朝は側室の子供も合わせると、四男二女をもうけています。
長男は北条政子と結婚する前に生まれた千鶴丸という男の子でしたが、3歳で殺されています。
次男は二代将軍となった源頼家ですが、23歳で伊豆修善寺に流され殺されました。
三男は妾の子で、貞暁と言いますが仏門に入ります。
四男は、頼家なき後の三代将軍となる実朝ですが、彼もまた頼家の息子の公暁に殺されました。
2人の娘も若くしてこの世をさっていますので、頼朝の血は実朝の死で完全に途絶えてしまうのでした。
関連記事 >>>> 「源頼朝の家系図は?子孫は続いているの?」
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。源頼朝についていかがでしたでしょうか。
源頼朝とは?簡単にまとめると
② 前線での実力は今ひとつ
③ 恐妻に怯えていたことは事実
④ 自分の子孫に恵まれなかった
と言えるのではないでしょうか。
その他の記事についても源頼朝にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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