源頼朝の家系図は?子孫は続いているの?

 

歴史の授業の時、

「 いい国作ろう鎌倉幕府 」と

鎌倉幕府の開かれた年号を覚えた人も多いのではないでしょうか。

1192年鎌倉幕府を開いたのは源頼朝でした。

今回はその源頼朝について、家系図がどうなっているのかを見ながら、

子孫が今もいるのかどうかも調べてみましょう。

 

源頼朝の家系図

まずは源頼朝の家系図を確認しましょう。

10秒見つめて暗記したら、本文に進みましょう。
(太字は、本文に登場する人物です。)

忘れたら、また戻ってきてください。

 

源頼朝の祖先は

頼朝は、源義朝の三男として生まれました。

父の義朝は清和天皇を祖とした河内源氏の流れをくんでいます。

清和天皇とは平安時代前期の第56代天皇です。

その子の貞純親王(さだずみしんのう)から清和源氏の血筋が続いていくのでした。

清和源氏の中には多くの氏族がおり、頼朝は武士としての源氏である河内源氏の子孫です。

この河内源氏の流れをくむ有名人には、足利尊氏や武田信玄などもいたのです。

頼朝は源満仲の三男である源頼信を祖とする河内源氏の7代目にあたります。

父の義朝も、兄弟の義平や朝長など頼朝以外の全員が、戦さや暗殺などで命を落としています。

 

源頼朝の子孫

頼朝は、八重姫という人との間に千鶴丸といいう子をもうけたと言いますが、
八重姫の父親にその子を殺されています。

その後、北条政子と結婚し
二人の間に「 大姫、頼家、三幡(さんまん/通称乙姫)、実朝(さねとも) 」の4人の子供をもうけています。

その他に大進局(だいしんのつぼね)との間に、
貞暁(じょうぎょう)という男子もいました。

彼は北条政子の嫉妬から逃れるために出家して僧侶となっています。

頼朝の跡を継いで第二代目将軍となったのは、
頼家でしたが23歳の若さで伊豆修善寺へ流され暗殺されています。

頼家を押す比企氏と弟の実朝を押す北条氏との対立のはて、
比企氏が滅亡し頼家も将軍家を追われたのでした。

頼家には四人の男子がいましたが、暗殺されたり、出家させられたりと北条氏の圧迫を受けました。

当然三代目将軍は、
弟の実朝が継ぎました。

しかし頼家の次男 公暁(くぎょう)によって暗殺されます。享年28歳でした。

その公暁も暗殺の罪で討たれます。

ここで頼朝の直系の血筋は途絶えてしまうのです。

頼朝の娘たちも子供を持ったという記録はなく、この後政治の中心は北条家へと移っていくのでした。

 

きょうのまとめ

平氏を倒し、鎌倉幕府を開いた源氏の頭領、源頼朝の血はあまりにも短い間に途絶えてしまいました。

しかし、清和源氏の血は今も続いています。

それに正室以外に妻を外に作るのが当時の武士にはよくありましたから、頼朝も同じく外に産ませた子供がいたかもしれませんね。

そう思うと何かしらの繋がりで今も頼朝の血が受け継がれているとも考えられます。

たとえそのような子供がいなかったとしても、

祖先からの源氏の血の中に、頼朝の血はわずかでも残っていることになります。

私は源氏の子孫だという人は、一度よく調べてみると面白いですね。

 

[関連記事]  










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

19 − 2 =